I プロローグ  
イタリア Italy ヨーロッパ南部にある共和国。正式国名はイタリア共和国。国土の半分以上が、地中海につきでた長靴形のイタリア半島で占められる。この半島部と大陸部のほかに、エルバ島、サルデーニャ島、シチリア島および小島群がある。大陸部ではフランス、スイス、オーストリア、スロベニアと国境を接している。半島部にはサンマリノ、バチカン市国という2つの独立国がある。イタリアの面積は301302km2。人口は5752万人(1997年推計)。首都は最大都市のローマ。


II 国土と資源  
イタリア半島は大陸部から、南東方向にのびていて、東でアドリア海、南でイオニア海と地中海、西でティレニア海とリグリア海に面している。国土は北西から南東にむかって長さ約1145km、半島の南端部をふくめると約1360kmになる。幅は大陸部で約610km、半島部で約240kmである。


大陸部の北では、アルプスが西のベンティミリアから東のゴリツィアまで弧をえがいてのび、国境となっている。国境にはマッターホルン(4478m)や、モンテ・ローザ(スイス側の頂上は4634m)、モン・ブラン(フランス側の頂上は4807m)のような高峰がある。イタリアの最高点は、フランスとの国境線上のモン・ブラン頂上付近にある。


アルプスと、イタリア半島の脊梁(せきりょう)をなすアペニノ山脈の間には、ポー川流域のポー平原をふくむ広大な平野が広がっている。


北部アペニノ山脈はマリティムアルプスからわかれ、ジェノバ湾にそってテベレ川の源流までつらなり、チモネ山(2165m)が最高峰である。テベレ川源流にはじまる中央アペニノ山脈はいくつかの山並みからなり、東部にアペニノ山脈の最高峰コルノ山(2914m)がある。南部アペニノ山脈はサングロ川の谷から南東にはしり、ターラント湾岸からさらに南へむかっている。イタリア半島南端のカラブリア半島にのびるアペニノ山中には、1900mをこすボッテドナトや、モンタルトの高峰がある。アペニノ山脈はイタリア半島の分水界を形成している。


アペニノ山脈はカラブリア半島の先端から地中海に没し、狭いメッシーナ海峡の下をはしってシチリア島を横切っている。シチリア島には現在も活動中の高峰エトナ山(3323m)がそびえ、メッシーナ海峡の北西にあるリパリ諸島中のストロンボリ島にも活火山がある。イタリアには火山が多く、とくに南部では、しばしば地震にみまわれる。


平野は国土のおよそ3分の1にすぎないが、最大の平野はポー平原である。アドリア海北部の海岸は低い砂地で浅瀬となり、ベネツィアのほかは大型船の進入はむずかしい。リミニ付近から南にむかうと、半島の東海岸にそってアペニノの支脈がつらなる。西海岸沿いの半島中部には、カンパーニアディローマ、ポンティノ平野、マレンマ湿地帯が広がっている。

イタリアの西海岸には入り江や湾などが点在し、天然の良港となっている。北西部のジェノバ湾には、商業都市ジェノバの港がある。西海岸南部のナポリ港は、ベズビオ山がそびえるうつくしいナポリ湾に面している。さらに南方のサレルノ湾奥にはサレルノ港がある。イタリア半島の南東端ではターラント湾が深くはいりこみ、いわゆる「長靴のかかと」と「つま先」とをわけている。

1 河川と湖  
イタリアには多くの川があるが、なかでもポー川とアディジェ川が重要である。ポー川の全長約650kmのうち航行可能なのは約480kmで、支流をあわせると約960kmが水運に利用されている。全長約410kmのアディジェ川はオーストリアのティロル州からイタリアにはいり、東にながれてポー川と同様にアドリア海にそそぐ。山からの堆積(たいせき)土によって、これらの川の川床は少しずつ高くなっている。

イタリア半島部の河川は浅く、夏季には干あがることも多いので、航路や工業用水としてはあまり利用されていない。半島部のおもな河川はアルノ川とテベレ川である。アルノ川は、アペニノ山脈にある水源から西へ約240kmながれる川で、よく耕作された谷をとおり、フィレンツェをへてピサへといたる。テベレ川はアルノ川源流のほど近くに源を発し、ローマ市内をぬけてながれる。

イタリア北部と半島部には無数の湖が点在する。北部のおもな湖は、ガルダ湖、マッジョーレ湖、コモ湖、ルガーノ湖である。半島部の湖は比較的小さく、トラジメーノ湖、ボルセナ湖、ブラチアーノ湖などがある。

2 気候  イタリアの気候は変化にとみ、アルプスやアペニノ山脈の高地にみられる厳寒な気候から、リグリア海沿岸や半島南西岸の亜熱帯気候にまでおよぶ。年平均気温は約1119ーCである。

半島部の気候は、おもにアペニノ山脈の山容によって変化するが、海風の影響もうけている。トスカーナ北部からローマ付近までの西海岸沿いの低地やアペニノ山脈の麓(ふもと)では、冬は温暖で晴天が多く、夏はすずしい地中海からの風で高温がやわらげられる。東側の同緯度地域では、特有の北東風のため気温はずっと低くなる。とくにアペニノ山脈の東側の高地では気候は寒冷できびしい。ローマから南の半島低地の気候は、南スペインの気候とよく似ている。一方、ポー平原の気候は大陸性である。この地方ではアペニノ山脈が海風をさえぎるため、夏は暑く冬は-15ーCにまでさがる。

イタリアでは、偏西風がふく秋と冬に雨が多い。年降水量は、南部のフォッジア県とシチリア島南部がもっとも少なく約460mm、北東部のウディネ県でもっとも多く約1520mmとなる。

3 植生と動物  
イタリアの中部・南部低地の植物は典型的な地中海性で、この地方特有の植物には、オリーブ、オレンジ、レモン、シュロなどがある。ほかに、イチジク、ナツメヤシ、ザクロ、アーモンド、サトウキビ、ワタなどが最南部でよくみられる。アペニノ山脈の植物は中央ヨーロッパの植物とよく似ている。麓(ふもと)にはクリ、イトスギ、カシが密生し、高地ではマツとモミが広くみられる。

野生動物の種類は、ヨーロッパの類似した地域とくらべて少ない。アルプス山脈には、少数だがマーモットやシャモア、アイベックスがすむ。古代に多数生息していたクマは事実上絶滅したが、オオカミとイノシシはまだ山岳地方におり、キツネもいる。ハゲワシ、ノスリ、タカ、トビなどの猛禽(もうきん)類は、おもに山岳地方でしかみられない。ウズラやヤマシギなどの渡り鳥は、イタリアの各地でみることができる。爬虫(はちゅう)類ではトカゲやヘビ、3種類の毒ヘビ、サソリがいる。

4 天然資源  イタリアは天然資源にとぼしい。山がちな地形やきびしい気候のために、農業にむかない。石炭のような基本的な地下資源も不足している。もっとも重要な鉱物資源は、天然ガス、石油、亜炭、硫黄(いおう)、黄鉄鉱で、ほかに鉛、マグネシウム、亜鉛、水銀、ボーキサイトがある。これらの鉱床の多くはシチリア島とサルデーニャ島にあるが、1990年代初頭までに大半がほりつくされてしまった。建築石材は種類が豊富で、大理石が有名である。イタリア近海は漁業資源にとみ、イワシ、マグロ、カタクチイワシは、商業上きわめて重要である。淡水魚ではウナギやマスがとれる。

III 住民  
イタリア住民のほとんどは生粋のイタリア人で、生まれた地域への帰属意識が強い。この国は一般的に、都会的な北部といなか風の南部にわけられ、その境界はアンコーナ港とローマの南部をむすぶ線とされる。大きな都市はほとんど北部にあり、人口の3分の2がくらしている。農業を主とする南部は北部にくらべて人口が少なく、産業もかぎられている。近年、人口はいなかから都会へと流入しており、1990年代半ばには、都市人口は全体の約71%になった。


1991年の国勢調査によると、イタリアの人口は56778031人で、97年の推計人口は5752万人。人口密度は1km2当たり約191人である。

1 行政区分と主要都市  
行政上、イタリアは20の州にわけられ、その下に県、さらにコムーネ(日本の市町村にあたる)がおかれている。


首都ローマはイタリア最大の都市で、文化と観光の中心地として知られる。このほか、人口30万以上の都市は次のとおり(1993年現在)。


製造・金融・商業の中心ミラノ、イタリアでもとくに活気にみちた港のあるナポリ、交通の要所で工業の盛んなトリノ、シチリアの州都で港のあるパレルモ、貿易と商業の中心ジェノバ、交通の要地で農産物市場となっているボローニャ、文化・商業・交通・工業の中心フィレンツェ、南部の貿易港バーリ、シチリアの製造・商業都市カターニア、港湾施設があり文化と工業の中心でもあるベネツィア。

2 宗教と言語  イタリアではローマ・カトリック教会の信者が大多数を占め、国民の約84%にのぼる。しかし、カトリック教会の役割はしだいに低下していて、毎週ミサにかようのは国民の25%にすぎない。1985年の法律により、ローマ・カトリック教は国教ではなくなり、公立学校での宗教教育も廃止された。プロテスタント、イスラム教徒、ユダヤ教徒など少数者の礼拝の自由は、憲法によって保障されている。

大半の住民はイタリア語を話す。イタリア語は、インド・ヨーロッパ語族のロマンス語のひとつである(イタリック語派)。北部のオーストリア国境に近いボルツァーノ一帯では、ドイツ語がつかわれている。そのほかの少数言語には、バッレダオスタ州のフランス語をはじめ、ラディン語、アルバニア語、スロベニア語、カタルニャ語、フリウリ語、サルデーニャ語、クロアチア語、ギリシャ語がある。

IV 教育  
イタリアがヨーロッパの教育にあたえた影響をたどると、古代ローマの教育者、学者にまでさかのぼる。なかでも傑出しているのは、キケロ、クインティリアヌス、セネカである。中世にはイタリアの大学が他国の大学のモデルとなった。ルネサンス期には全ヨーロッパに対し、自由な学芸、とくに古代ギリシャの言語と文学の教師としての役割をはたした。17世紀にも、イタリアの大学とアカデミーは教育と研究におけるヨーロッパの中心であった。1819世紀にその影響力も弱まったが、20世紀にはいるとマリア・モンテッソリが開発した幼児教授法などにより、イタリアの教育はふたたび国際的に注目されるようになった。

イタリアの近代教育制度は1859年制定の法律にはじまり、初等から大学レベルまでの学校制度が整備され、19世紀後半には改正がくわえられた。ムッソリーニ政権では1923年に、文部大臣ジェンティーレが教育を完全に政府の統制下におくことをめざし、39年の教育憲章によって統制はさらに強化された。しかし43年のファシズムの崩壊とともに、イタリアは民主的な方針にそった学校制度の編成にとりかかる。47年成立の憲法やその後に制定された法律によって全体の教育水準はあがり、教育テレビ放送のような実験が奨励された。

現行の教育制度では、幼稚園は35歳の幼児を対象とする。義務教育は614歳の児童・生徒を対象とするもので、無償である。義務教育の期間は、初等教育の5年(小学校)と中等教育の3年(中学校)からなる。中学校は中等教育のうち必修部分をあつかい、その後高等学校にすすんで、専門的な訓練をうけたり大学入学の準備をすることができる。大学入学のための勉強は、文科系普通高校、理科系普通高校、教員養成学校、技術学校、職業学校でおこなわれる。美術学校や音楽学校に入学する生徒もいる。専門的な訓練には工業と農業もふくまれる。

1 大学  イタリアでは高等教育への関心がきわめて高い。19世紀末の25年間に、大学卒業者数は人口の増加とともにおよそ7倍になった。1990年代初頭には、毎年130万人以上の学生が高等教育機関に入学した。イタリア最古の大学は11世紀につくられたボローニャ大学であり、13世紀創立の大学が6校、14世紀創立の大学が5校ある。ローマ大学(1303年創立)は学生数217000人のイタリア最大の大学である。そのほか、バーリ、フィレンツェ、ジェノバ、ミラノ、パドバ、ペルージャ、ピサ、シエナ、トリエステの各大学が有名である。

V 文化  
古代から現代まで、イタリアは常に文化の面で世界の中心的役割をになってきた。世界にほこる彫刻、建築、絵画、文学や音楽とくにオペラの分野での貢献が大きい。統一国家になってからまだ150年にみたないが、イタリア人は自分たちを「新しい」国民だとは思っていない。むしろ、古代ローマ人の後継者だと考えている。


また、地域的な違いがいまだに色こくのこっているが、これは地理的な境界がはっきりしていて、ギリシャ人やエトルリア人、イスラム教徒、ノルマン人、ランゴバルド族からつたわった文化的伝統がたもたれているからである。地域的な特色は、方言や祝日、祭り、民謡、郷土料理の中にはっきりとみられる。家族こそ力の源であり、家族に忠実に生きるという伝統は、すべてのイタリア人の生活のよりどころとなっている。


画家ではジョット、フラ・アンジェリコ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロ、ティツィアーノ、モディリアニなどが活躍した。音楽家ではビバルディ、プッチーニ、ロッシーニ、ベルディなどが名高い。


建築:イタリア文学:映画:西洋音楽:オペラ:彫刻

1 図書館と博物館・美術館  
イタリアには重要な図書館がたくさんある。フィレンツェ、ナポリ、ローマにある国立図書館は規模も大きく貴重である。

イタリアの多くの都市は、世界的に有名な美術コレクションを所蔵している。なかでも重要なフィレンツェのウフィツィ美術館とメディチ家礼拝堂、ナポリの国立博物館、ローマのビラ・ジュリア美術館、ボルゲーゼ美術館、国立近代美術館が知られている。なお、バチカンにも重要な美術コレクションが多数あり、とくに有名なものがシスティナ礼拝堂にある。

ベネツィアでは世界的に名高い視覚芸術の国際展ベネツィア・ビエンナーレが開催される。

VI 経済  2次世界大戦前のイタリアは農業国だったが、戦後は北部に多様な産業基盤が整備され、国の経済発展に大いに貢献している。1995年のGDP(国内総生産)は約1882億ドル、1人当たり約19691ドルであった。GDPの構成比率は、工業が約28%、商業と金融が31%、農林水産業が4%、サービス業が約37%である。

現在のイタリア経済は民間企業を基盤としているが、以前は石油工業や交通輸送、電信電話をはじめ多くの商社やメーカーに対して国家が支配権をにぎっていた。1990年代半ば、多くの企業が政府の管理からはなれ、民間企業へと転換した。

イタリア経済が依然としてかかえる課題は、南部の工業化の遅れである。政府による工業化育成の努力も、労働力の問題や、マフィアの影響力のため大企業の南部進出がはばまれるといった複雑な現実に直面している。多くの労働者が職をもとめて南部から北部へ移住しているが、失業はいまだ国全体の問題であり、失業率は就労可能人口の約11%である。

多額の国債もイタリア経済の悩みの種である。マーストリヒト条約の規定(3%)にそって、イタリアは財政赤字の削減につとめ、1996年度予算では財政赤字がGDP5.8%に削減された。

1 農業  
国土の約60%が耕地と牧草地で、農業従事者は漁業と林業の従事者とあわせて労働人口の約8%にあたる。気候、土壌、高度が変化にとんでいるため、さまざまな農作物の栽培が可能である。イタリアは世界有数のワイン生産国で、オリーブとオリーブ油の生産量も多い。このほかのおもな農作物は、小麦、トマト、トウモロコシ、テンサイ、リンゴ、モモ、ジャガイモ、ダイズ、米である。そのほかに大麦、ライ麦、アーティチョーク、チリペッパーや、スイカ、ナシ、オレンジ、イチジク、ナツメヤシ、ナッツがあげられる。


酪農も主要な産業であり、ゴルゴンゾーラ、パルメザンをはじめ約50種類のチーズが生産される。家畜として牛、スイギュウ、ヒツジ、豚、ヤギ、馬、ラバ、ロバ、ニワトリ、アヒルが飼育されている。

2 林業と漁業  イタリアの森林業資源はとぼしく、木材の多くを輸入にたよっている。森林はまず古代ローマ人によって、その後19世紀に大部分が伐採されてしまった。その結果土壌の浸食がすすみ、林業の発展の障害となっていたが、近年は状況の好転がみられる。水産資源としては、ムール貝、エビ、イワシ、マス、メルルーサ、カタクチイワシ、タコがあげられる。

3 鉱工業  鉱業が国内生産に占める割合はわずかだが、鉱物の生産量は少なくない。1990年代初頭で重要なものは、亜鉛、鉛、重晶石である。このほか原油、天然ガス、亜炭、黄鉄鉱、ホタル石、硫黄(いおう)、水銀を産出する。

2次世界大戦以降、工業が急速に発展し、イタリア製品は世界的な人気をえている。重要な工業に、繊維工業と、硫酸、アンモニア、水酸化ナトリウムの製造などの化学工業がある。そのほか自動車、鉄鋼、ゴム、重機械や電気機器とくに家電製品、パスタなどの食料品の製造業が盛んである。造船、アサ(麻)やタバコの加工、製糖も重要。工業の中心地はジェノバ、ミラノ、ローマ、トリノである。

4 エネルギー  イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の約5分の4は、石油、天然ガス、石炭、亜炭をもちいた火力発電が生みだしており、残りの大部分が水力発電によっている。1990年代初頭の年間発電量は約2350kWh

5 通貨と銀行  通貨単位はリラである。通貨発行銀行であるイタリア銀行は各県都に支店をもち、預金高を通じて都市銀行を統制する。ヨーロッパ域内の自由な資本の移動と通貨統合をめざすヨーロッパ共同体(現ヨーロッパ連合)の動きにあわせて、1990年イタリアの銀行制度は大幅に変更され、公営銀行の削減、外国資本に対する規制緩和がおこなわれた。ミラノとローマが金融の中心である。

6 外国貿易  イタリアとヨーロッパ共同体(現ヨーロッパ連合)加盟国との貿易が増加したことが、1970年代、80年代の特徴である。石炭、石油などの原材料を輸入に依存しているため、貿易収支の不均衡が生じている。観光収入や、外国にすむ移住者からの送金、海運収益は、一部ではあるが貿易赤字をうめあわせている。95年の輸出額は約2510億ドル、輸入額は約2069億ドル。おもな輸出品は機械、自動車、オートバイ、衣料、紡糸、織物、靴、鉄鋼、果実、野菜、ワインなど、輸入品は機械、車両、石油、金属、化学製品、紡糸、織物、食肉などである。

1990年代初頭、リラ切り下げで、外国市場にとってイタリア製品の価格が低下したため、輸出が増加した。これにより、戦後もっとも深刻な経済不況から脱している。貿易相手国のおよそ5分の3を、EU加盟国が占めている。おもな輸出相手国はドイツ、フランス、オランダ、イギリス、アメリカ合衆国、ベルギー=ルクセンブルク、スイス、輸入相手国はドイツ、フランス、アメリカ合衆国、スペイン、スイス、ベルギー=ルクセンブルク、オランダである。

7 交通  イタリアは世界でも有数の商業船団保有国で、1990年代初頭の登録船腹量は約770万総tである。おもな港はジェノバ、トリエステ、ターラント、ベネツィア。

鉄道の大部分は国営で、総延長は2kmをこえ、その半分以上が電化されている。道路網では、自動車専用道路アウストラーダの整備がすすんでいる。イタリアとフランスの間には1965年、世界屈指の長さをほこる自動車専用トンネル、モン・ブラン・トンネルが、80年にはフレジュス峠下をぬけるトンネルが開通した。

国営のアリタリア航空は国内線と国際線の運航をおこなっている。最大の国際空港はミラノ北西部のマルペンサ空港で、ローマ近郊のレオナルド・ダ・ビンチ国際空港は利用客が多い。

8 コミュニケーション  1976年に政府による放送の独占が廃止されて以来、国内の放送局はラジオ160局以上、テレビ80局以上となっている。人口比に対する日刊紙の発行部数は少ないが、全体の発行部数は年に3%以上の伸びをしめしている。北部と中部の読者で売り上げの5分の4を占める。政党機関紙やローマ・カトリック教会の機関紙をふくめて、地方紙は重要な役割をはたしている。90年代初頭の受信機数はラジオ約4570万台、テレビ約2430万台である。

9 労働  1990年代初頭には、総労働人口約2430万人のうち約990万人が3つの主要な労働組合に所属していた。労働組合はおもな各業種の賃金と給料をさだめる。

10 マフィア  マフィアはイタリア経済と社会に強烈な影響力をおよぼしている。もともと中世後期にシチリア島で生まれた秘密結社で、親族組織からなり、冷酷な暴力とオメルタというきびしい沈黙の掟(おきて)で知られる。19世紀後半にはシチリアの田園地帯を支配し、地方当局への介入、ゆすり、市民に対するテロ活動をおこなっていた。1920年代から第2次世界大戦終結まではムッソリーニによって弾圧される。この時代をのぞいて、マフィアはイタリアの南部を中心に、合法・非合法活動によって影響力を拡大しつづけた。また、マフィア勢力は移民とともに海外とくにアメリカにわたり、70年代までに世界のヘロイン取り引きの大部分がマフィアの支配下にはいった。

1980年代半ばに新政権がマフィアの大物たちの犯罪を告発しはじめたこと、多くの政治家とマフィアをつなぐ一連の政治スキャンダルの発覚によって、イタリアにおけるマフィアの影響力もおとろえる日がくるだろうという観測が生まれている。

VII 政治  194662日、国民投票によって君主制が廃止され、イタリアは共和国になった。4712月に制憲議会でイタリア共和国憲法案が可決され、4811日に施行。この憲法により、ファシスト党の再結成は禁止された。国王はファシズムとの連帯責任を追及され、サボイア家直系の男子継承者は選挙権と公職につく権利をうしない、事実上イタリアから追放された。貴族の称号は今後新たに授与されることはないが、221028日以前からある称号は名前の一部としての使用がみとめられている。

民主主義の導入以来イタリアでは50以上もの内閣が生まれたが、大臣をささえる確固とした官僚制により、秩序は維持されている。

1 行政  大統領が国の元首で、任期は7年。その選出は、上下両院の議員にバッレダオスタ州の代表各1名と、のこる19州の代表各3名をくわえた合同会議でおこなわれる。大統領は50歳以上であることが条件で、ふつう3分の2の信任によって選出される。大統領は上下両院の解散権をもち、この解散権は任期終了の6カ月以前であればいつでも行使できるが、実質的な行政には通常あまりかかわらない。

行政は、大統領の指名をうけ、両院の信任をえた首相と閣僚の手にゆだねられる。首相は下院第1党の党首であることが多い。

2 立法  国の最高機関で立法府である。国会は二院制で、上院と下院は同等の権限をもつ。議員の任期はともに5年である。

長年にわたって比例代表選挙がおこなわれていたが、1990年代初頭の汚職事件の結果、より直接的な選挙制度を規定する案など8件が934月の国民投票で支持された。943月の選挙以来、下院630議席と上院315議席のそれぞれ4分の3が、直接投票でえらばれている。残りの議席は比例代表制による。また上院にはそのほかに終身議員がおり、元大統領と大統領に任命される5名の名誉議員からなる。上院の選挙権は25歳以上、その他の選挙権は18歳以上である。

3 司法  イタリアの破棄院は、憲法以外のすべての事柄の訴訟をあつかう最高裁判所である。憲法にかかわる裁判は憲法裁判所でおこなわれ、国や州の法律が合憲かどうか、国と州、州と州の間で権限がどちらに属するかなどの判断をくだす。同裁判所は15名の裁判官で構成され、裁判官は大統領、上下両院の合同会議、最高裁判官により各々5名ずつ指名される。

通常の裁判は三審制で、最高裁判所の下に、刑事事件では重罪院、重罪控訴院が、民事事件では地方裁判所、控訴院などの裁判所がある。

4 地方自治  
イタリアには20の州があり、その下に合計95の県がおかれている。各州には、州議会と州政府があり、州政府はかなりの自治権をもっている。各県の首長の実際の権限は小さく、県議会と県の執行委員会が各県の行政をおこなっている。地方自治の基本単位であるコムーネ(市町村)は1990年代初めに8000以上あり、小さな村からナポリのような大都市まで規模はさまざまである。各市町村は市町村議会と市町村長によって運営される。

5 政党  イタリアでは1990年代前半に収賄などの政治スキャンダルが指導的政治家にまでおよんでいることがわかり、94年、キリスト教民主党はイタリア人民党とキリスト教民主センターに分裂、社会党は解散し、同党左派を中心にイタリア社会主義社が結成された。こうして、従来の連立内閣のかたちがくずれた。一方、西ヨーロッパ諸国で最大といわれたイタリア共産党は、91年に左翼民主党と改称したが、ほどなく左派が共産党再建派として分離する。

政界再編がおこなわれる中、19943月の総選挙で、結成間もないフォルツァ・イタリア(「がんばれイタリア」の意)が北部同盟、国民同盟とともに勝利し、右派自由連合をくんで組閣した。12月には北部同盟が離脱して連立政権が崩壊。951月発足のディーニ内閣は1年で総辞職した。

19964月の総選挙で、左翼民主党、共産党再建派、プロディ・グループ、イタリア刷新(ディーニの新政党)、緑の党などの中道左派が選挙連合(オリーブの木)を結成し、上下両院で第1勢力となった。第2勢力はフォルツァ・イタリア、国民同盟などの右派連合。北イタリアの分離を主張する北部同盟は94年の選挙より大きく後退した。

6 厚生  国民に無償で医療を提供することを目的として、1980年に政府管理の保険業務が確立された。雇用者が大部分を負担する社会福祉保険は、病弱者、老人と国家年金受給者、農業経営者、臨時農業従事者などにも適用されるようになった。90年代半ばの平均寿命は女性が80歳、男性が74歳で、乳児死亡率は1000人につき8人であった。

7 防衛  2次世界大戦後、イタリアの軍備は制限されていた。しかし、NATO(北大西洋条約機構)に加盟した1949年以降、拡大された。男性の兵役義務は10カ月である。97年の兵力は、陸軍188300人、海軍44000人、空軍63600人。

VIII 歴史  5世紀以前のイタリアの歴史については、エトルリア文明、ローマ史でのべている。近代イタリアの発展については、フィレンツェ、ジェノバ、ロンバルディア、ミラノ、ナポリ、教皇領、サボイア家、シチリア島、トスカーナ、ベネツィアを参照していただきたい。

1 中世  
476年、ゲルマン人の傭兵(ようへい)隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝を退位させ、イタリアの支配者となった。その後は東ゴート族、ビザンティン帝国の支配をへて、6世紀後半ランゴバルド族がイタリアを征服し、パビーアに首都をおいた。

1A フランク族の進出  ほとんどのイタリア人が正統派キリスト教徒だったのに対し、ランゴバルド族は異端のアリウス派を信仰していたため、両者の間では宗教をめぐる争いがたえなかった。7世紀初めごろにランゴバルド族は正統派に改宗したが、のちに教会の中心ローマをおびやかすようになった。このため教皇は、はやくから正統派キリスト教に改宗していたフランク族に援助を要請。これをうけてフランク国王ピピン3世がランゴバルド族を征服し、教皇に領土を献上した。ピピンの子カール大帝は800年、教皇より西ローマ皇帝の冠をあたえられる。

9世紀になるとイスラム勢力がシチリア半島を拠点にイタリア南部を侵略し、ローマをおびやかした。その後諸王が次々にあらわれる混乱の時代となったが、962年ドイツ王オットー1世が教皇から帝冠をうけ、ローマ皇帝の位についた。ここに神聖ローマ帝国とドイツ国家が成立したといわれる。

1B 教皇と皇帝の対立  12世紀初め、ノルマン人によってシチリアと南イタリアが征服された。そのころ北イタリア諸都市はコムーネ(自治都市)をつくり、神聖ローマ帝国皇帝の支配をこばんでロンバルディア都市同盟を結成する。また、教皇権も勢力を拡大し、叙任権闘争で頂点に達した。皇帝と教皇の抗争はイタリアを2分してつづいた。このように神聖ローマ帝国は中世の終わりまでイタリアを統治していたが、14世紀初めには有名無実の存在となっていた。

1C 都市国家の隆盛とルネサンス  
商業活動を通じて繁栄をとげた北イタリア諸都市では、富裕な商人たちが皇帝からの自治を確保していった。ベネツィアは十字軍への参加によって一大交易帝国となり、フィレンツェ、ミラノなどの都市は有力な一族による統治のもとで富を蓄積し、しだいに周辺地域を支配下において強大化した。

こうした都市の繁栄を背景に新しい文化が生みだされ、イタリアは15世紀半ばまでにヨーロッパ諸国にさきがけて文芸復興への道を開いた( ルネサンス)。15世紀末にはフランスがイタリア遠征をおこなったのを契機に、フランス、スペイン、オーストリアの侵略戦争の場となる。このフランスによるイタリア侵略は政治的な成果はあげなかったが、これによりイタリア文化が全ヨーロッパに普及することとなった。

2 近代初期  16世紀を通じて、イタリア半島の諸国家はフランスやハプスブルク家といった中央集権国家による侵略をうけた。その後も分裂状態と外国の支配がつづき、18世紀になると、スペイン継承戦争などの舞台となり、勢力の均衡は変化した。教皇が孤立化を深め、フィレンツェもその中心的地位をうしなう中、サボイア家が勢力を拡大していく。18世紀後半にはオーストリアの勢力下におかれた。

2A ナポレオン時代  1796年にフランスのナポレオンはイタリア遠征を開始してオーストリア軍に大勝し、1805年イタリア王に即位した。ナポリ王国はナポレオンの一族によっておさめられ、ローマもフランス領に編入される。ナポレオン失脚後のウィーン会議(181415)によって、オーストリアのイタリア半島統治が復活した。一方、サボイア家のサルデーニャ王国はピエモンテ、ニース、サボワをとりもどし、ジェノバを獲得した。

3 リソルジメント  フランスおよびオーストリアの統治に対するイタリアの抵抗は、国家の統一と独立をもとめる「リソルジメント」運動となって発展した。オーストリア首相メッテルニヒの外交政策と軍事介入の脅威の中で秘密結社が組織され、とくに南イタリアのカルボナリ党は1820年にナポリでおこった革命の際、重要な役割をはたした。

3A ナショナリズムの動き  1830年にフランスでおきた七月革命の影響はイタリアにも波及する。マッツィーニは「青年イタリア」を組織し、ナショナリズムと共和主義の理想をイタリアの人々に広めた。立憲運動が激化する中、48年初め、ついに両シチリア王国、トスカーナ大公国、サルデーニャ王国、教皇領で憲法が発布された。

3B 1848年の諸革命  18483月、ウィーンで48年革命がおきたことで、メッテルニヒが失脚し、ミラノとベネツィアはオーストリア軍の追放に成功した。サルデーニャ王国は愛国主義者たちの国家統一の要求に応じてオーストリアからの解放戦争に突入、ロンバルディアに進軍したが敗北におわる。一方ローマでは、同年11月に教皇が脱出したのち、マッツィーニがローマ共和国を樹立。しかしガリバルディらの努力にもかかわらず、497月、ローマはフランス軍によって占領された。

3C ガリバルディとカブール  
サルデーニャ王国は1855年、イギリス、フランス側とともにクリミア戦争に参戦した。同王国の首相カブールはイタリア統一を実現するには列国の援助が必要とみなし、ナポレオン3世と密約をむすび、59年同盟してオーストリアからのイタリア解放戦争(独立戦争)にのぞんだ。しかし、戦争の長期化をおそれたナポレオン3世が一方的に休戦したため、サルデーニャもやむなく講和をむすぶ。サルデーニャはロンバルディアを獲得しただけにとどまったが、翌60年にはモデナ、パルマの2公国を併合する代わりに、フランスにニースとサボワを譲渡した。

1860年、ガリバルディはパレルモでおこった反乱を支援するため、遠征隊をひきいてシチリア島に上陸した。まもなくシチリアを制圧し、イタリア本土への攻撃を開始したが、フランス軍との衝突をおそれたカブールによってガリバルディの進軍は阻止された。その過程でサルデーニャ王国は、ローマとその近郊をのぞいて教皇領の大半を獲得し、ナポリ、シチリア、マルケ、ウンブリアを併合する。

4 イタリア王国  18613月、サルデーニャのビットリオ・エマヌエレ2世を国王とし、カブールを首相とするイタリア王国の成立が宣言された。しかし、ローマとベネツィアはまだ統合されてはいなかった。その後66年にプロイセン・オーストリア戦争に参戦してベネツィアを獲得する。70年、プロイセン・フランス戦争に敗北したフランスがローマから撤退すると、イタリア軍はついにローマへの入城をはたした。住民投票の結果、ローマはイタリアへ統合されることになり、翌年統一イタリアの首都となった。

4A 植民地政策  1882年イタリアはドイツ、オーストリアと三国同盟をむすび、ヨーロッパを2分して敵対する陣営の一角を形成した。また国内問題から国民の目をそらすため、フランスやイギリスの例にならって植民地政策を開始。エリトリアを植民地化し、ソマリ海岸南部を保護領としたほか、エチオピアの侵略には失敗したものの、イタリア・トルコ戦争でリビア海岸の支配権を獲得した。

4B 1次世界大戦前のイタリア  190114年、3度首相をつとめたジョリッティのもと、イタリアでは政治、社会、経済の近代化がすすみ、多くの改革が導入された。外交面においては、フランスとの関係が改善される一方、三国同盟も維持されていた。こうしたイタリアの民主的な発展は、第1次世界大戦への参戦によって中断される。

4C 1次世界大戦  1914年に第1次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したとき、イタリア政府は中立を宣言していた。しかし連合国側とのロンドンでの秘密会談で「全領土」の回復を約束され、翌年オーストリア、トルコ、ドイツに宣戦した。連合国側の勝利で戦争は終結し、イタリアはトレンティノ、トリエステなどを獲得したものの、ロンドン条約で約束された全領土をえることはできなかった。

4D 1次世界大戦後  
191922年のイタリアは、政治紛争や労働争議がおこり、インフレなどによって、経済も悪化する中、戦勝国でありながら講和条約には敗北したという不満が国民の間に高まった。こうした状況下、国家主義的傾向の強い戦闘的政治団体であるファシスト党が、社会主義、共産主義団体との抗争を展開していく( ファシズム)。22年にファシスト党の党首ムッソリーニがローマへの進軍を敢行して圧力をかけたため、国王はムッソリーニに組閣を命じた。

政権の座についたムッソリーニは、立憲政府を停止させ、反対政党を解散するなど、しだいに独裁体制を確立していった。

4E ファシスト党の独裁  1929年にムッソリーニは教皇庁とラテラノ協定をむすび、バチカン市国を創設することによって、60年におよぶ教皇権をめぐる論争を解決した。同年に世界恐慌がはじまると、鉄鋼業界の再編、公共事業計画に着手する。また軍備の拡張、強化をはかった。

対外的には、アルバニアに勢力をのばすなど、ムッソリーニは巧みに国威を発揚していった。193510月、エチオピアへの侵略を開始。国際連盟はイタリアへの経済制裁をおこなったが効果はあがらず、365月イタリアは正式にエチオピア併合を宣言した。これによりイギリス、フランスとの提携関係は崩壊にむかい、イタリアはナチス・ドイツに接近していった。

19367月にスペインで内乱がはじまると、ムッソリーニは反乱軍のフランコを支援して戦争に介入する。同じように内乱に介入したドイツと提携関係をむすび、これをムッソリーニは「ベルリン・ローマ枢軸」とよんだ。翌年には日独伊三国防共協定の固守を宣言したのち、国際連盟を脱退した。389月ミュンヘン協定の交渉に際して、ムッソリーニはヒトラーの要求を支持した。

4F 2次世界大戦  19399月、第2次世界大戦がはじまった。ムッソリーニは参戦の準備がととのわないとして中立を宣言したが、その後のドイツ軍の優勢をみて、40年ドイツ側にたってイギリス、フランスに宣戦を布告。同年6月フランスは降伏した。しかし10月のギリシャへの侵攻が失敗におわり、地中海とエジプトでイギリス軍に敗北したことで、ファシスト党体制は根底からゆりうごかされた。

イタリアは19416月ソ連に、その半年後にはアメリカに宣戦布告した。42年以降、北アフリカ戦線のイタリア・ドイツ軍はイギリス軍の攻撃によって一掃され、東部戦線における枢軸軍の大敗も決定的なものとなる。そのころ、北アフリカに基地をおいたイギリス・アメリカ軍によるイタリア本土への空襲がはじまった。

19437月シチリアが連合国軍に占領され、本土への空襲がはげしくなると、国内の反ファシズム活動も高まり、ムッソリーニは失脚。その身柄は軍の管理下におかれ、バドリオ元帥が首相となった。9月、バドリオ政権は連合国軍と無条件降伏にもとづく休戦協定をむすんだ。

4G 降伏後のイタリアをめぐる戦い  
19439月の休戦協定が公表されると、連合国軍とドイツ軍は、イタリアの統制下にあった領土、基地、兵器、軍事施設などの所有をめぐって猛烈な戦いを開始した。ドイツ軍はイタリア北部・中部の戦略上の要地や都市を占領し、イタリア兵を武装解除する。さらにローマを占領してムッソリーニを救出、ファシスト政権樹立を宣言させた。これに対し、バドリオ政権は10月ドイツに宣戦した。

19446月にローマが連合国軍によって解放され、ボノミのひきいる新政権は連合国の管轄下におかれた。454月、連合国軍は最終的な攻撃を開始し、ドイツ軍を完全に粉砕する。ムッソリーニはパルチザンにとらえられ、処刑された。

5 共和国  19466月、はじめて女性も参加して国民投票がおこなわれた結果、イタリアは共和国となり、国王は退位し、イタリアをさった。同時におこなわれた制憲議会の選挙ではキリスト教民主党が第1党となり、社会党と共産党とともに三大政党を構成した。共和国の臨時国家元首にエンリコ・デ・ニコラ、首相にデ・ガスペリが就任。4712月には共和国憲法が成立する。

5A パリ講和会議と戦後の外交  19477月パリで英仏米ソ四大国との講和条約が調印され、トリエステの国際管理化、植民地の放棄、ソ連への賠償金の支払い、軍備の制限などがきめられた。その後まもなく、連合国による占領軍はイタリアから撤退した。

19494月、デ・ガスペリ首相はワシントンでNATO(北大西洋条約機構)への加盟条約に調印。52年には、イタリアは他の西ヨーロッパ諸国とともにECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)を発足させた。これはのちにEC(ヨーロッパ共同体)、そして現在のEU(ヨーロッパ連合)に発展していく。

5B 社会の大変動  
戦後の復興期をへて、イタリアは1960年代半ばまでにめざましい経済成長をとげた。60年代後半からは社会、経済、政治、宗教において、さらなる進展をみせた。しかし、74年の不況や石油危機とともに、インフレ、失業、通貨の国外流出といった諸問題が増大。また70年代を通じてテロ活動がはびこり、70年代末にはさらに悪化する。

1980年代になると社会党が勢力をのばし、838月には社会党、キリスト教民主党などとの連立内閣が発足。これは874月までつづく戦後もっとも長期の内閣となり、社会も比較的安定をたもった。

1990年代にはいると、経済力の弱体化、高い失業率、政治家の汚職の発覚、マフィアの絶大な影響力といった種々の要因が重なって、有権者のはげしい反発が生まれた。95年初頭に首相に就任したディーニは、財政赤字やリラの切り下げといった問題にとりくんだが、1年ほどで辞任。ディーニの暫定内閣をへて965月、中道左派連合「オリーブの木」のプロディ内閣が発足、戦後初の旧共産党中心の政権となった。

19969月、北部同盟は、トリノからベネツィアにいたるポー川にそった地域を「パダニア共和国」として独立させると宣言し、975月、その賛否を問う住民投票を実施した。経済的に豊かな北部の富が南部への補助金につかわれることに対する北部の不満を背景とするもので、北部同盟は住民の99.7%が独立に賛成したと発表した。10月には「パダニア共和国」の「議会」選挙が実施され、約500万人が参加し、200人の「議員」を選出した。これに対し、9月にはミラノとベネツィアで北部同盟に反対する労組主催の集会が開かれ、100万人が参加した。

プロディ政権はEU通貨統合への参加をめざし、199710月付加価値税の20%引き上げや年金の大幅削減を盛りこんだ98年度予算案を議会に提出した。通貨統合参加資格として財政赤字をGDP(国内総生産)の3%以内におさえこむことが義務づけられているためであるが、閣外協力の共産党再建派は、支持層に年金生活者を多くもつためはげしく反対し、プロディ政権は崩壊の危機におちいった。しかし、通貨統合参加をもとめる世論をうけて、共産党再建派は反対を撤回して閣外協力をつづけることになり、プロディ政権は危機を脱し、予算案は成立した。危機をのり切ったプロディ内閣の与党、中道左派連合「オリーブの木」は11月の地方選挙で圧勝。985月のEU首脳会議で、イタリアは通貨統合に第1陣として991月から参加することが確定した。

1997年にはいり、ねずみ講の破綻(はたん)を引き金にして無政府状態におちいったアルバニアから、大量の難民がイタリアに流入した。イタリア政府は非常事態を宣言して緊急財政措置を講じるとともに、4月には、イタリア軍を中心とする多国籍軍をアルバニアに派遣した(7月に撤退)。8月には、アルバニアの軍隊および警察の再建をイタリアが支援する協定をむすんだ。