モネの部屋

ひなげし(50×65cm) 1873年

印象派絵画の珠玉といってよい《ひなげし》には、暖かい風と青草の香りがする。光溢れる真夏の穏やかに晴れた日、感覚の勝利である。印象派絵画の特徴の全てがここにある。戸外での制作、日常の何気ないひとこま、草原の斜面をおりてくるカミーユとジャン、明るい色彩と大気の表現。《ひなげし》に愛着を持ったのは画家だけではない。

−岩波 世界の巨匠−から

 

アルジャントウイユのレガッタ(48×75cm) 1875年頃

オルセー美術館の珠玉のひとつに挙げることが出来る。

−岩波 世界の巨匠−から

睡蓮:緑のハーモニー(89×93cm) 1899年

この絵は、デユラン=リュエル画廊で展覧会の開かれた翌日、イサーク・ド・カモンド伯が買い上げた。伯爵の相談相手であったミッシェルマンツイはこの購入に興奮して、大喜びで叫んだものである。「有り難う、伯爵、フランスのために感謝いたします」。8年後、14点ものモネを含む伯爵の素晴らしいコレクションは、ルーブルに遺贈された。と、いう。

−岩波 世界の巨匠−から

積み藁:夏の終わり(60×100cm) 1890年

1890年の夏から翌年の春にかけて描かれた《積み藁》の連作によって、モネは新たな境地を開いた。(中略)モネの関心は移ろいゆくものの一瞬の表情にあった。モティーフそのものはいつも同じ角度から眺められ、光だけが季節や天気や時間によって変化する。一度に何枚ものキャンバスに描いてゆくのがモネのやりかたであった。一枚には2・3分しかかけない。消えてしまう前に「瞬間」を素早く捕らまえなければならない。義娘のブランシュが、モネをよく手伝ってイーゼルの上のカンヴァスを入れ替えるのだった。(中略)《積み藁》連作の成功が経済問題を一挙に解決した。作品は殆ど1000フラン前後で売れ、モネの値段は急激に上がり始めた。この資金を元にモネはジヴェルニーの家を買い、睡蓮の池を掘り始めた。

−岩波 世界の巨匠−から

 

パラソルをさす女(左向き)(131×88cm) 1886年

若いシュザンヌ・オシュデがジヴェルニー近くのイル・オーゾルティの土手の上に立っているのを2点描いた。モデルの向く方向によって変化する光の研究であった。このモデルは後にアメリカ人の画家シドア・バトラーと結婚する。1899年に31歳の若さで世を去った。彼女は、ジヴェルニーで一番明るく可愛らしかったので、みんなの人気者だったのである。モネはシュザンヌの面影を手放そうとはしなかった。その死後も2枚のカンヴァスはアトリエにあり、1927年にミッシェル・モネーがルーヴルに寄贈した。

−岩波 世界の巨匠−から

 

アルジャントウイユ鉄橋(54×71cm) 1873年頃

 

アルジャントウイユの橋(60×80cm) 1784年

 

アルジャントウイユ河岸(60×80cm) 1872年頃

 

草上の昼食(相当大きい−右端の青いのは、見物女性の腕) 1865-66年

マネの同名の作品に対する賞賛と、挑戦の意味を込めてモネが制作した大作。彼はこの作品を未完のまま質屋に入れたため、買い戻したときには傷んでいて切断せざるをえなかった。

−JTB 街物語 パリ−から

 

青い睡蓮 1916-19年

あまりにも有名なモネの「睡蓮」の中では初期の作品。モネは1883ねんにはジヴェルニーに転居し、1908年頃から睡蓮のある池の、水と光の反映の後継を表現する仕事に没頭するようになった。

−JTB 街物語 パリ−から

 

    

 

2005/05/26 モネの家と庭を見に、バスで行って来た。ゴッホのオーヴェル・シュル・オワーズとルノアールの描いたレストラン「フレネーズ」経由だったので、バスで2時間半ほどかかった。大きな駐車場はほぼ満車、そして入場者の列と凄い人だった。折から真夏の暑さもあって、みんなくたくたの様子。庭には草花が満開。睡蓮も咲きはじめていたが、湖面に雪のように、何の木か不明の咲き殻が落ちていて、景観を損ね残念だった。

モネの家と行列、池と太鼓橋、睡蓮

 

気分はパリジャントップ    シスレー