1 金門島
ここに着いたのは、成田を9:40に発って台北乗り継ぎで、17時頃だった。金門島は地図でも分かるように、中国本土まで2.1q(干潮時は、1.8q)の近さで、自由世界にとっての反共の防波堤ともいえる。ここは「戦争の島」だ。人口は5万人で、平均収入は本島の半分(月収5万円ほど)だという。そこから「生活苦を恐れず、困難な仕事を恐れずそして戦闘においては死を恐れず」という金門精神が生まれたという。
1949年10月25日午前2時、中共軍が古寧頭付近に上陸して始まった「古寧頭の戦い」に勝利した戦史館を訪れたが、その凄まじさに圧倒された。それから10年後の19 58年8月23日共産軍が砲火を集中させ、金門地区に絨毯爆撃を仕掛けてきた。44日間で50万発もの砲弾(1平方キロあたり3160発)が落とされたという。 この戦いの勝利を記念した「八二三戦史館」が中正公園にある(時間の都合で見学できなかった)。今でも、この弾頭を使って刃物(包丁やナイフ)を造っている工場がある。
建功嶼(ケンコウヨ)の干・満潮時の様子(撮した場所は一寸違うが、夕日のは右に見える島−右の写真の島と同じもの−へ歩いていく途中撮ったもの)、この直ぐ近くに鄭成功(1661年、当時台湾を支配していたオランダを追い払い「反清復明」の基地とした)の母親(日本人で、平田の田川氏の娘)を祭った寺院があった(三枚目)。
古寧頭戦史館と「金門の虎」と称えられたM5A1タンク、館の内部には、戦いの様子を描いた油絵、小銃などの武器などの資料が展示されている。
翟山坑道(ディシャンクンダオ)は、1961年に上陸用舟艇(写真左)発着基地として造られた。右はその坑道。現在は公園になっている。
1958年に中国から発射された砲弾、それから造ったナイフ(2700円)、と包丁(1650円)、一個の砲弾から包丁が40〜60丁出来るという
日本統治時代(1895-1945)の国民小学校、古い様式の民家、邱良功母節孝坊(台湾で最も壮麗な石碑で国の一級史跡−浙江省総督の邱良功が28年間貞節を守り通した母親を称えて1812年に建てたもの)
風獅爺−自然信仰が生んだ風の神−(レストラン入り口、ホテル、土産物屋)