エンカルタ百科事典から「中国」の記述

I プロローグ  
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく People's Republic of China ユーラシア大陸の東部、太平洋の西岸にある共和国。略称は中国。世界第1位の人口と広大な国土をもち、中国共産党に指導される社会主義国である。国旗は赤地に5つの星をあしらった「五星紅旗」、国章は上空に5つの星がかがやく天安門を歯車と穀物の穂がとりかこむ図案、建国記念日(国慶節)は101日である。総面積は960km2で、人口は124374万人(1997年)。首都はペキン(北京)。



北から南にかけて東南部はポー(渤)海、ホワン(黄)海、東シナ海(東海)、南シナ海(南海)などの海洋に面し、18000kmにおよぶ海岸線がのび、大小5400をこえる島々をかかえている。陸地の国境線は約22800kmにおよび、東北部は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、北東部はロシア、モンゴル、北西部はカザフスタン、キルギス、タジキスタン、南西部はアフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、カシミール地域、南部はミャンマー、ラオス、ベトナムの14カ国1地域と国境を接する。


国土面積は日本のおよそ26倍にあたり、ロシア連邦、カナダ、アメリカ合衆国についで面積の大きな国である。国土の南北の距離は5500km、東西の距離は5200kmに達する。南部のハイナン(海南)省で春の種まきがはじまるころには、東北地区のヘイロンチアン(黒竜江)省ではまだきびしい雪嵐(ゆきあらし)にさらされる。最東端のロシアとの国境で太陽がのぼるころ、最西端のパミール高原はまだ闇(やみ)の中にあるという広大さである。

II 国土と資源   1 地形  
地勢は西高東低で、西から東に4つの地域にわけられる。第1の地域はヒマラヤ、カラコルム、クンルン(崑崙)山脈などにかこまれた西南部のチンツァン(青蔵)高原(チベット高原)で、平均標高は4000m以上。文字どおり「世界の屋根」で、現在も活動しつづける「新期造山帯」に属する。第2の地域は青蔵高原以北と北東部のターシンアンリン(大興安嶺)、タイハン(太行)山脈、ターロウ(大樓)山脈から南西部国境にいたる線の西側地域で、大部分が標高10002000mの高原と盆地からなる。ここにはジュンガル盆地、タリム盆地、スーチョワン(四川)盆地、ネイモンクー(内蒙古)高原、ホワントゥー(黄土)高原、ユンコイ(雲貴:うんき)高原などがふくまれる。


3の地域は第2地域から海岸線にいたる地域で、標高500m以下のトンペイ(東北)平原、ホワペイ(華北)平原、チャン(長)江中下流平原、トンナン(東南)丘陵、チュー(珠)江デルタなどの平原や丘陵になっている。第4の地域は大陸周辺の水深200m未満の大陸棚海域と、洋上の島々からなる。最大の島は台湾(約36000km2)で、2番目は海南島(約34000km2)である。


地形は多様で、山地が33.3%、高原が26%、盆地が18.8%、平原が12%、丘陵が9.9%で、山地、高原、丘陵が70%近くを占める。最高点はチョモランマ(エベレスト。8848m)、最低点はトゥルファン盆地(海抜-154m)である。標高でわけると、500m以下の面積が25.2%5001000m16.9%10002000m25%20003000m7%3000m以上が25.9%になる。

土地の利用状況は、耕地が9.9%、森林13.4%、内陸水面1.8%、草原41.6%、その他33.3%で、その内訳は砂漠や標高3000m以上の高地が81%強、居住地、道路、鉄道、工場、鉱山用地が19%となっている。中国は「世界の7.1%の耕地で全人口の21.4%をやしなう」といわれるほど農耕地が狭く、人口1人当たりの農耕地は日本をしたまわる。

2 河川と湖  
長江、ホワン(黄)河の二大河川をはじめ、1000km2以上の流域をもつ河川は1500余りある。国土全体が西高東低の階段状地形のため、ほとんどの河川が「東流して海にいたる」ことになる。長江は世界で3番目に長い川で、青蔵高原を源に、東方にむかって約6300kmをながれて東シナ海にそそぎ、水上交通の主要幹線となっている。黄河(5464km)は、高原東端のバヤンカラ山脈から出発して、黄土高原をながれ、渤海湾にはいる。黄河流域は中国古代文明の発祥の地で、中華民族のゆりかごとよばれる( 黄河文明)。西北・華北地方の干ばつを解消するため、長江上流から黄河上流へ200m3の水をひく「南水北引」プロジェクトの全体計画が、1995年にまとまった。


湖の総面積は75200km2で、1km2をこえる湖が2800余りある。ポーヤン(j陽)湖(3960km2)、トンティン(洞庭)湖(2820km2)、タイ(太)湖(2425km2)、ホンツォー(洪沢:こうたく)湖(1960km2)は、中国四大淡水湖とよばれる。チンハイ(青海:せいかい)湖(4583km2)は最大の塩水湖である。


陸地にある水面面積は174700km2で、国土面積の1.8%を占める。淡水魚などの養殖が可能な面積は67500km2で、46700km2がすでに利用されている。

3 気候  
国土が広大なため、気候は多様である。北から南に寒帯、温帯、亜熱帯、熱帯などにわかれる。年降水量は南東側で1000mmをこえ、北と西にむかって少なくなり、西北部では年間100mm以下の砂漠のような風景があらわれる。東部では、夏に海から温暖で湿潤なモンスーン(季節風)がふきこむので全般に高温多湿になるが、冬は寒冷な偏北風がふくため、南北の気温差が大きい。四季がはっきりしているが、温度や降水量の変化が大きい大陸性気候となっている。西域のシルクロードにある地域では「朝は毛皮のコート、昼は半袖」といわれるぐらい1日の気温変化がはげしい。冬の気温は同緯度の外国より低く、夏の気温は逆に高くなっている。稲の栽培は、技術向上にもよるが北部のヘイロン(黒竜)江(アムール川)沿岸にまで広がっている。

4 植生と動物  
高等植物が32000種余りあり、イチョウ、メタセコイア( セコイア)、トチュウ(杜仲)など中国原産の植物が多い。現在、材木林が1000余種、漢方薬用植物11146種、繊維植物500余種、油脂植物600余種、デンプン植物300余種、果樹植物300余種、蔬菜(そさい)植物80余種がある。森林面積は1286300km2にすぎず、森林被覆率は13.4%と世界平均(28.6%)をしたまわっている。

中国は野生動物の種類がもっとも多い国といわれている。陸生脊椎(せきつい)動物だけで2091種もあり、淡水魚約600種、海水魚は1500余種で、いずれも世界の10%を占める。ジャイアントパンダ、キンシコウ(金糸猴)、ヨウスコウカワイルカ( カワイルカ)のような中国だけにみられる貴重な動物は100余種をかぞえる。鳥類は1186種で、世界の13.5%を占める。とくにタンチョウやトキなどの珍鳥が知られる。

これまでに国内で580カ所の森林・野生動植物自然保護区が設定され、総面積は51km2で国土面積の5.3%になっている。このうち6種類のツルが生息しているヘイロンチアン(黒竜江)省のチャーロン(札竜)保護区などは国際的に有名な保護区である。

5 鉱物  鉱物資源が豊富で、160種余りの有用鉱物資源のうち、140余種類が中国内で確認されている。石炭の埋蔵量と生産量は世界1位である。非鉄金属は83種。タングステン、アンチモン、亜鉛、ニッケル、モリブデン、鉛、水銀などの埋蔵量は世界でも上位にある。非金属鉱物は73種で、おもなものはリン、硫黄、石綿、雲母、カオリンなどである。これらのうち80種類は漢方薬用につかわれている。

6 環境保護  1979年の環境保護法(暫定)の制定以降、北部における防護林帯の造成、生態系保護地域の設定、工場の操業停止をふくむ環境基準の作成などの努力がなされ、94年末までに8万人をこえる環境保護の専門要員が組織された。しかし、石炭の燃焼にともなう酸性雨汚染などの深刻な公害問題がおきている。94年の「環境報告」では、調査した77都市のうち8割で酸性雨が観測され、工場が密集するチョンチン(重慶)、アンシャン(鞍山)、タートン(大同)などではとくに深刻である。東部では十数万人が人体に被害をうけた。酸性雨は中国で「空中鬼」とよばれている。

1994年に水や大気などの環境汚染事故は3000件をこえ、公害が人体にあたえる影響はすでに癌(がん)や呼吸器系疾患による死者の急増などにあらわれている。開発優先、公害防止技術の未発達と資金不足によるもので、現在中国は「環境計画中国アジェンダ21」( アジェンダ21)で62の個別計画をさだめ、酸性雨の抑制、廃棄物の回収などについて日本にも技術協力をもとめている。

III 住民  19952月に総人口は12億人をこえ、世界第1位。世界人口の約5分の1を占め、日本の人口の約10倍である。人口密度は1km2当たり130人である(1997年)。

1 人口  
中国は56の民族がすむ多民族国家である。漢族が全人口の92%で、その他55の少数民族が8%を占める。少数民族の中にはチワン(壮)族のように人口1500万人をこす民族や、人口わずか2000人余りのロッパ(珞巴:らくは)族もいる。人口100万人以上の少数民族はモンゴル、チベット、ウイグル、満、回族など18である。1990年の人口調査で民族として識別できない人々は75万人をかぞえる。少数民族はおもに北東部、北西部、南西部のステップや山岳地帯、高原にくらし、その居住地は国土の半分をこえる地域に点在している。また西南部のユンナン(雲南)省は、国内で少数民族がいちばん多い省で35の民族がくらしている。

人口の9割以上が国土のが東半分に集中し、とくに長江中下流地域のフーペイ(湖北)、フーナン(湖南)、アンホイ(安徽:あんき)、チアンシー(江西)、チアンスー(江蘇)の各省と、シャンハイ(上海)市に全人口の4分の1がすむ。上海市の人口密度は1km2当たり2000人以上ともっとも高く、国土面積の5分の1を占める青蔵高原の人口密度は1km2当たり5人にみたない。


男女比は5149で、男性が2011万人多い。女性はあらゆる職場に進出している。年齢構成は014歳が25.9%1564歳が67.2%65歳以上が6.9%(1996年)で、近年は65歳以上の人口比率が高くなっている。平均寿命は男68歳、女71歳(1990年)である。

都市と農村の人口は、それぞれ35950万人、86439万人で2971の比率となり、人口だけでいえば中国は農業国家である。近年、農村から都市への人口移動がはげしい。海外在住中国人、いわゆる華僑は3000万人といわれ、そのうちの9割は東南アジアにくらしている。世界のほとんどの大都市にチャイナタウン(中華街)があり、中国料理店がにぎわっている。中国人の姓はおよそ6000弱で、代表的な単姓(1字)が約450、複姓(2字以上)が約60ある。もっとも多い姓はリー(李)で約9000万人に達し、以下はワン(王)、チャン(張)、チャオ(趙)、リウ(劉)とつづく。

1970年代末以来、20代後半までの結婚延期の奨励や、産児制限などをおもな内容とする「一人っ子政策」が実施され、94年の出生率は1.8%と建国以来の最低を記録した。上海市ははじめて人口増加率がマイナスとなった。しかし、人口の8%を占め、少子政策がとられていない少数民族の人口増加率は依然として高い。

2 行政区分  
日本の都道府県に相当する一級行政区は23省、5自治区、4直轄市。1997年に主権行使を回復したホンコン(香港)は、高度の自治権をもつ特別行政区である。23省はヘイロンチアン(黒竜江)省、チーリン(吉林:きつりん)省、リャオニン(遼寧:りょうねい)省、ホーペイ(河北)省、シャントン(山東)省、シャンシー(山西)省、シャンシー(陝西:せんせい)省、カンスー(甘粛:かんしゅく)省、チンハイ(青海)省、チアンスー(江蘇)省、アンホイ(安徽)省、ホーナン(河南)省、チョーチアン(浙江:せっこう)省、チアンシー(江西)省、フーペイ(湖北)省、フーナン(湖南)省、スーチョワン(四川)省、フーチエン(福建)省、コワントン(広東)省、コイチョウ(貴州)省、ユンナン(雲南)省、ハイナン(海南)省(1988年省に昇格)の各省に、台湾をふくむ。

5自治区はネイモンクー(内蒙古)自治区、ニンシアホイ族自治区(寧夏回族自治区)、シンチアンウイグル(新疆ウイグル)自治区、チベット自治区、コワンシーチワン(広西チワン)族自治区。4直轄市はペキン(北京)市、ティエンチン(天津)市、シャンハイ(上海)市、チョンチン(重慶)市。この23省、5自治区、4直轄市の名称をおりこんだ、「両湖両広両河山、五江雲貴福吉安、四西二寧青甘陝、還有内台北上天」という七言詩(海南省と重慶市ははいっていない)がある。

省の下が地区クラスの二級行政区で、その下が県クラスの三級行政区になっている。県の下は末端行政組織の郷・鎮である。1996年末現在、台湾をのぞく地区、県クラスの行政区、市直轄区はそれぞれ335地区、2142県、717区となっている。

3 主要都市  
中国では都市のことを、かつて城壁にかこまれていたことから城市という。1995年現在、市区人口が200万人以上の都市は18100万〜200万人未満は137をかぞえる。200万人以上の都市は上海、北京、天津、チョンチン(重慶)、シェンヤン(瀋陽)、ウーハン(武漢)、コワンチョウ(広州)、チョントゥー(成都)、シーアン(西安)、ハルビン(哈爾浜)、チャンチュン(長春)、ナンキン(南京)、ツーポー(v博)、ターリエン(大連)、チーナン(済南)、チンタオ(青島)、タイユワン(太原)、チャオヤン(潮陽)である。

4 言語と宗教  
国内でもっとも広く使用されている漢族の漢語(中国語)は、本土以外に台湾の人々や、海外在住の華僑の間でもつかわれ、世界でもっとも多くの人が話す言語となっている。中国語には多くの方言があり、大きく北方語、呉語、広東語、福建語、客家語( 客家)の5つにわかれるが、相互にはほとんど通じない。全土で通用する共通語は北京語の発音を標準音とし、北方語を基礎とし、現代白話(話し言葉)の文章を文法規範とするもので、普通話とよばれる。中国語を表記する漢字の総数は約6万字で、うち常用漢字が2500字選定されている。漢字の簡略化がはかられ、日本の漢字とちがう簡体字が通常使用されている。


55の少数民族のうち、21の民族は自身の文字をもち、なかにはナシ族の東巴(トンバ)文字のような絵文字もあるが、回族、満族など3民族は中国語をつかっている。残りのキルギス族、ミャオ(苗)族など34の民族は本来文字をもたない。

信教の自由は憲法で保障されている。漢族の間では仏教または民間信仰である道教などが広く信仰されている。現在、政府が開放を許可している仏教寺院は約9500カ所、僧侶(そうりょ)は18万人いる。道観(道教の施設)は600余りある。1990年には中国道教学院が正式に開学した。少数民族の場合、イスラム教を信仰するのはウイグル族などの10民族、チベット仏教(ラマ教)や仏教を信仰するのは主としてチベット族、モンゴル族などである。ミャオ族やイ(彝)族の一部はキリスト教を信仰する。オロチョン族などの民族は民族固有の宗教を信じている。

現在、宗教ごとに中国仏教協会のような宗教団体が組織され、国外の団体との交流も活発である。仏教徒と道教信仰者の数は不明だが、イスラム教徒は約1800万人、キリスト教徒のうちプロテスタントは約1000万人、カトリックは約400万人といわれる。

5 厚生  1996年末の病院のベッド数は2866000床(療養所などをふくめると310万床)で、医師が1941000人、看護婦(士)が1163000人である。

1984年から、養老年金を地域ぐるみで一元的に徴収する保険制度の改革がはじまった。現在、多くの都市で養老保険を中心とした総合的社会保険制度が普及している。養老保険の原資は国、企業、個人の共同負担となっている。国内全体で8000万人余りの企業従業員が基本養老保険に加入している。失業保険も整備され、94年末現在、9500万人が失業保険に加入している。

IV 教育と文化   1 教育  19959月から新教育法が施行され、教育事業の仕組みが明文化された。学校は教育委員会の管轄のもと、国と地方の教育予算にもとづき運営されている。

学校制度は小学校6年、中学校3年、高校3年の633制となっている。このうち小学校、中学校の9年間は義務教育である。新学期は9月からはじまる。小学校から中学校へは90%以上が進学するが、高校へ進学する場合は試験の成績によって進学校がきまる。小学校の就学率は1996年現在98.8%、中学校への進学率は92.6%、中学校から高校などの後期中等教育機関への進学率は48.8%となっている。

大学数は1032校で、総合大学と師範、体育など11種の単科大学(学院)からなり、北京大学(北京)、復旦大学(上海)、中国科学技術大学(ホーフェイ:合肥)は有名である。1996年の在学生は3021000人、大学院生は163000人である。そのほかに各種の専門学校があり、成人教育や生涯教育が奨励されている。少数民族の幹部を養成するため、中央と地方には12の民族学院が設置されている。近年、海外へでる留学生もふえた。

2 文化  広大な中国にはさまざまな地域文化がそだっている。漢民族と少数民族、北部と南部ではそれぞれことなり、多様性をもっているのが特徴である。一方、北方遊牧民族と南方農耕民族の対立・融合の過程で、共通の価値観や、伝統と習慣もうけつがれている。

米の主産地である南部地域では米が主食で、北部は麦や雑穀類を粉にして、麺類や饅頭(まんじゅう)のようにして食べる。北部ではおもに肉類を食べ、南部では海産物や淡水魚がおもな食材料となる。料理もあっさりとした薄味の南部系と、味がこく辛口の北部系にわけられる( 中国料理)。北部人は南部人を活動的だが軽薄であるとし、南部人は北部人のことを鈍重と考えている。しかし、文化的アイデンティティ、血縁や地縁の重視、教育への熱意、階層的感覚、老人の尊重などの価値観や、冠婚葬祭などの風俗習慣はたがいに共通したものが多い。

旧正月(春節)は中国最大の祝日で、法定の休日が3日間あり、祝祭日の中でもっとも長い。日にちも行事内容もまったくちがう正月をもつ少数民族も少なくない。チベット族はチベット暦によって屋根の上で縁起のいい松やにをたいて元日をむかえる。南部にすむタイ族はタイ暦の6月(新暦4月中旬)に水をかけあって正月をすごす。

1978年以降、中国の人々は古い伝統をいだきながら近代化をすすめてきた。近年は金をかせぎ、ほしいものを購入するという欲望が、他の欲望をおしのけて人々の心の中で急成長している。人民服にかわって最新ファッションを着こなす女性が、上海の繁華街をあるく。89年以前には1店舗もなかった美容院が国内全土で70万店舗にふくれあがった。都市では子孫をのこす伝統的な意識がうすれ、結婚をしても子供をつくらない夫婦がふえている。完全週休2日制の実施にともない、旅行ブームがおこり、「杭州・北京四日遊」などの国内旅行のほか、香港や東南アジアなどへのパッケージツアーも人気をよんでいる。消費文化の発展はめざましい。

3 芸術  
文学界は1980年代後半から、市場原理が文学の末端まで浸透するという大きな変化をむかえている。はげしく変化する社会生活を実地に体験した十数人の作家によって書かれた「新体験小説」のシリーズは、「北京文学」の94年の号からはじまった。「人民文学」94年の号に「先鋒」という第1作を発表したわかい女性作家徐坤(じょこん)などは、新人作家として注目されている。 中国文学

京劇は清代の北京にはじまる代表的な古典演劇で、中高年者に人気がある。政府から財政面で支援され、199410月〜951月には京劇の名優梅蘭芳(メイランファン)生誕100周年の記念行事が全国でおこなわれた。京劇以外に、地方には郷土色豊かな方言でうたい、かたる、独特の「地方劇」が演じられている。安徽省の黄梅劇、四川省の川劇、浙江省の越劇などがある。20世紀初め、西洋演劇は、新劇、文明劇などと呼び名をかえて「話劇」と名づけられた。茶店に出入りする70人余りの人物がくり広げる北京の下町情緒をえがいた老舎の「茶館」などはその代表作で、海外での評価も高い。 中国音楽:中国の演劇

映画はもっとも人気のある大衆娯楽のひとつで、最新の外国映画が上映される映画館には長蛇の列ができる。1996年末現在、上海、北京、チャンチュン(長春)の三大撮影所をはじめ、国内には30の映画撮影所があり、年間110本(1996年)の劇映画が製作されている。上海国際映画祭は世界九大映画祭のひとつとして93年から隔年開催されている。陳凱歌(チェン・カイコー)監督は国際的に知られた代表的な映画監督で、92年の作品「さらば、わが愛 覇王別姫(べっき)」が翌年のカンヌ国際映画祭で中国人としてはじめてグランプリを獲得した。また、「少林寺」「芙蓉鎮(ふようちん)」などの映画が注目され日本でヒットした。 中国映画

1983年ごろから歌手テレサ・テンの歌をはじめ、台湾や香港からポピュラー音楽や歌謡が大陸にはいり、86年からはロックが北京の大学生の間ではやりはじめた。崔健(ツイ・ジェン)、艾敬(アイ・ジン)などの中国の人気歌手は、日本ツアーやアメリカツアーをおこない、「おれにはなにもない」「私の1997」などのCDも日本をはじめ海外で発売されている。「北国の春」などの日本の歌はカラオケで広くうたわれている。

中国に近代的な博物館ができたのは辛亥革命(1911)以降のこととされる。1914年、清朝の離宮にあった宝物をあつめて北京古物陳列所が設立され、25年には故宮博物院がもうけられた。革命後は各地に博物館が創立され、96年現在、その数は1291館に達している。歴史的な文物924万余点を所蔵し、展示会を年5000回以上開き、参観者は延べ13555万人にのぼる。故宮博物院のほか、秦の始皇帝の兵馬俑坑(へいばようこう)博物館(西安)、上海博物館などがとくに有名である。 中国美術

1996年現在、全国の芸術公演団体は2664、文化会館2892、公共図書館2631、公文書館は3000以上ある。

4 スポーツ  1979年に国際オリンピック委員会に復帰した。90年に北京で開かれた第11回アジア競技大会は、建国以来最大規模の大会として成功をおさめた。卓球をはじめ競泳、陸上、体操、女子バレーボール、飛び込み、重量挙げ、女子走り高跳びなどで、世界のトップレベルの実力がある。96年のアトランタ・オリンピック大会で中国選手は、卓球、飛び込み、重量挙げなど16種目で金メダルを獲得した。政府機関として国家体育運動委員会(スポーツ省)があり、日本の「国体」にあたる全国運動大会は4年に1回開かれる。北京国際マラソンや香港・/FONT>北京ラリーなどの国際大会もおこなわれている。伝統的な武術や太極拳などは国民の間で広く愛好され、竜船競漕や民族式レスリングなどは少数民族の独特なスポーツである。

5 コミュニケーション  国営通信社の新華社から内外のニュース提供をうける新聞、ラジオ、テレビが、中国のマスコミの中心である。新聞は「人民日報」「光明日報」などの全国紙のほかに、地方紙、夕刊紙、専門紙などあわせて1083種(省以上の地域)、雑誌は7916種ある。ラジオははやくから普及し、中央人民放送局が全国向けに7つの番組を放送し、放送のカバー率は84%に達している。「北京放送」で知られる国際放送局は、毎日延べ167時間の海外放送をおこなっている(1996年)。

1958年にはじまったテレビ放送は80年代にはいって急速に発展した。国営の中央テレビ局は4つのチャンネルをもち、テレビのカバー率は86%である。カラーテレビの普及率は農村部では23%程度だが、都市部では94%で、大型高画質カラーテレビに移行している(1996年)。これまで政府の細部にわたる強力な統制下にくみこまれていたマスコミも、近年は部分的に開放されてきた。共産党の機関誌や国営テレビに内外企業の広告があふれ、上海には民営のテレビ局が誕生した。

V 経済  中華人民共和国が成立してから今日までの経済発展は、大きく2つの時期にわかれる。194978年と、79年以降今日までである。前期は国有化、計画経済、重工業の開発、農業共同体の創設をおもな内容とする社会主義建設、後期は市場経済の導入を主とする経済改革期だった。その分水嶺(ぶんすいれい)となったのは78年末に開かれた中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(3中全会)である。ここで、従来の政策を根本的に転換する改革・対外開放政策の方針が決定された。改革とは国内経済体制の改革、対外開放とは対外経済関係全般にわたる開放と地域的開放をさし、とくに外資導入がおもな目的だった。

1 市場経済への移行  19947月施行の公司法(会社法)にもとづいて設立された株式制企業数は94年末現在、25800社である。一方、外資系企業は約11万余社が活動している。96年の外資導入(契約ベース)は24673件、金額にして816億ドルにのぼった。進出地域別にみると東部沿海地域の比重が圧倒的に高く、中部地域、西部地域がこれにつづく。一方、中国企業の海外進出もすすみ、これまでに中国は海外で4739社の企業設立に投資し、中国側の投資総額は532700万ドルになった。また956月現在、中国の専門家44チーム、約2600人が64カ国で援助にあたっている。

1978年の改革・開放の実施以来、96年までの18年間にGDP(国内総生産)は5倍以上に達し、年平均成長率は10%前後になっている。同時に物価上昇率も94年の22%95年の15%など、高い水準で推移している。

なお、1996年の国内総生産の産業別構成比は、第1次産業20.2%、第2次産業49%、第3次産業30.8%となっている。94年に発表された「90年代の産業政策要綱」によると、中国の産業政策の重点は農業、経済基盤の整備、機械やエレクトロニクスなどの支柱的な産業の振興、貿易の発展におかれている。94年の全国人民代表大会では、従来の高度成長から安定した経済成長をめざす方針がうちだされた。

1992年以降、「全方位の対外開放、高レベルの発展」を目的に行政の地域をこえて生産要素のよりよい配置をうながし、重大プロジェクト建設の地域間の協調をすすめるために、国内に七大経済区がつくられた。それは、遼寧省、吉林省、黒竜江省などをふくむ東北地区。北京市、天津市、山東省、山西省、内蒙古自治区、河北省、遼寧省の沿海部をふくむ渤海湾地区。上海市、江蘇省、浙江省をふくむ長江沿岸地区。四川省、貴州省、雲南省、広西チワン族自治区、海南省などをふくむ西南と華南の両南地区。陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区、青海省、新疆ウイグル自治区、チベット自治区などをふくむ西北地区。黄河中流から下流にかけての地域で河南省、湖北省、湖南省、安徽省、江西省をふくむ中原地区。広東省、福建省の沿海部をふくむ珠江デルタ地区である。

2 国民総生産と労働力  「ワールド・バンク・アトラス」1997年版によると、中国の国民総生産(GNP)は74489000万ドル(1995年)で、アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イタリア、イギリスについで世界第7位である。これを購買力平価に換算すると、中国はすでにアメリカ、日本につぐ世界第3GNP大国である。しかし93年の中国の1人当たりのGNPは日本の39640ドルにくらべて620ドルにすぎず、単純計算では日本の64分の1である。

国内における国民1人当たりの所得の格差は大きく、省レベルでみるともっともまずしい貴州省ともっとも豊かな上海市との格差は111である。インフレの高進とともに格差はさらに拡大している。

1996年末の総就業人口は68850万人で、農村部の労働者が71.2%、都市の勤労者は28.8%をそれぞれ占める。産業別の就業者構成比は第1次産業50.5%、第2次産業23.5%、第3次産業26%となっている。都市部の失業者は553万人、失業率は3.0%と公表されているが、実際には「3人分の仕事を5人でやっている」のが現状で、大量の潜在失業者が存在する。一方、農村の余剰労働力は、農村労働力人口49035万人の約4分の1にあたる12000万人にも達し、不完全就業状態にあるといわれている。また雇用機会の多い国有企業の経営が開放経済下でゆきづまるケースが多く、失業者の増大が懸念されている。労働力の需給は基本的に供給過剰だが、雇用拡大策として、雇用機会の多様化と労働力市場の管理強化がうちだされている。

3 農業  
長江下流域で、約6000年前の世界最古の水田状稲作遺構がみつかったように( 稲作)、中国は農業の歴史がもっとも古い国のひとつで、米( イネ)、チャ、クワ、ソバ、ゴボウ、カキ、ウメ、ビワ、クリなど数多くの主要作物栽培の起源地である。農村人口が全人口の71%になる農業国で、農業生産総額はGDP20%を占める。

国土面積の10%にあたる耕地で栽培される主要な作物は穀物である。チンリン(秦嶺)山脈とホワイ(淮)河から南側に稲作地帯が広がり、ホワン(黄)河流域から北は畑作が多く、コムギ、雑穀、ダイズなどがつくられる。万里の長城からクンルン(崑崙)山脈にかけての北部は一年作で、春コムギ、トウモロコシ、コウリャンなどの産地となっている。綿作は黄河や長江の流域、タリム盆地などの西北部にみられる。西の内陸部やチンツァン(青蔵)高原(チベット高原)ではウマ、ヒツジ、ヤクなどの牧畜がおこなわれる。南端の海南島などではゴム、ココヤシ、コーヒー、サトウキビなど、熱帯・亜熱帯作物の栽培が盛んである。

農業生産量で世界第1位をほこるのは穀物、肉類、綿花、ナタネ油、ラッカセイ、第2位にあるのはチャで、第3位にあるのはダイズ、サトウキビである(1996年)。1996年の食糧生産高は5454tと過去最高の水準に達した。


1978年以降、集団労働と統一分配を特徴とする人民公社が順次解体され、「生産請負責任制」がとりいれられた。農家はわりあてられた耕地の経営をまかされ、政府へ供出する所定の農産物の量や税金などを収穫量からのぞいた残りを自分で処分できるようになった。現在、完全に近い自主的経営権をもった農家経営が全国的に広まっている。都市近郊の農家が、畜産や果樹栽培などの副業にとりくんだり、建設・輸送業などとの兼業に力をいれることで収入が急速にふえ、80年代初期には年収1万元以上の「万元戸」があらわれた。今では、資産が100万元をこえる「百万富翁」がすでに全国で100万人をこえたといわれる。

1984年以降、かつての人民公社時代の「社隊企業」が再編され、集団・個人経営企業に姿をかえた「郷鎮企業」という農村企業が急速に発展した。87年にはその生産総額は農・林・畜・漁・副業をふくめた広義の農業生産額をこえ、95年には68915億元になった。工業、建設業、輸送業、商業などからなる郷鎮企業は、農村経済の主勢力であるとともに、国民経済の中で大きな役割をはたしている。

農産物の対日輸出はここ数年いちじるしく増加し、チンゲンサイなどの生鮮野菜は日本のスーパーマーケットにならべられるようになった。1996年の食料品の対日輸出額は505400ドル余りになり、対日輸出総額の12.5%になる。

4 牧畜業、林業、漁業  牧畜業は農業生産総額の約30%を占め、豚、ウマ、ヤギなどの飼育頭数は世界第1位で、牛、ヒツジなども世界の上位にある。利用可能な草原面積は31km2に達し、国土面積の3.2%である。内蒙古草原は中国の代表的な天然牧場である。農家ではニワトリ、アヒル、豚といった家畜がかわれている。

林業は農業生産総額の約3%を占める。木材のおもな産地は東北、南方、西南地区で、スギやマツなどがおもな樹種である。東北は針葉樹を中心とする中国最大の林業地帯で、森林面積と木材蓄積量は、全国の約4分の13分の1以上を占める。黒竜江省のイーチュン(伊春)は、木材の集荷と加工の最大の中心で、「林都」とよばれる。竹林は面積が310ha以上あり、おもに南方に分布する。木材や竹林以外のおもな林産物としては天然ゴム、松やに、生ウルシ、桐油、クルミなどがあげられる。1994年の林産物と加工品の輸出は100tをこえ、10億ドルの外貨を獲得した。

漁業は農業生産総額の約9%になる。1996年の総生産量は3288tである。沿岸漁場の面積は148km2と国内全体の総耕地面積より広い。魚類は1500余種、商品用のエビ類約100種、海草類約2000種をかぞえる。大・小イシモチ、タチウオ、イカは四大経済魚類といわれる。ターリエン(大連)、イエンタイ(煙台)、ニンポー(寧波)、チャンチアン(湛江)などがおもな漁港である。

内水面漁業の発展がいちじるしく、1996年の漁獲高は1275tに達した。長江および淮河流域漁業区がもっとも大きく、国内の淡水面積の約50%、漁獲高の約60%になる。青魚、草魚、タナゴ、コノシロは中国の四大養殖魚である。ウーハン(武漢)、チウチアン(九江)、コワンチョウ(広州)はおもな淡水漁港である。

5 工業  1991年以降、工業は連続して10%をこえる伸び率を記録し、96年の工業生産総額は国内総生産の43%になった。工業総生産額の構成比は重工業57%、軽工業43%となっている。機械、紡績、冶金、造船、自動車、エレクトロニクスが主要な工業部門で、全体的に原材料工業の比率が低下し、加工工業が上昇した。生産量で世界第1位を占めるのは石炭、セメント、綿布、テレビ、第2位にあるのは化学肥料、化学繊維、粗鋼。原油は第5位である(1995年)。

工業は東部地域に集中している。製鉄は鞍山と上海、自動車は長春、造船は大連と上海が中心である。西北の内陸部では外国資本と技術を導入した本格的な油田と天然ガスの開発がすすめられようとしている。とくにタリム盆地は、未開発の油田地帯として世界最大級とみられる。東北地区には石炭、鉄鋼、自動車など重厚長大型の産業が発展し、企業規模も大・中型の国有企業が集中している。香港に近い華南などの沿海部では、外国資本や合弁企業による輸出向けの組立・加工工業が盛んである。

工業生産額の所有別の構成比は、国有28.5%、集団所有39.4%、個人所有15.5%、その他16.6%となっている。1996年の工業生産額の対前年の伸び率は、国有企業は5.1%、集団企業は20.9%、個人企業は20%、外資系をふくむその他の企業は23.8%と、国有企業の停滞がめだっている。

工業の発展をひっぱっているのは第1に外資系企業、第2に郷鎮企業である。郷鎮企業の発展がもっともはやく、もっともいちじるしい江蘇省は、建国以来中国の工業をリードしてきた上海にかわって、国内最大の工業地域に成長した。国有企業は、赤字企業数が40%以上に達し、経済成長の妨げとなっている。

国有企業の生産は、これまでは国が下達(かたつ)する各種の目標にもとづいておこなわれてきた。1970年代末から、経営自主権の拡大や工場長責任制などの制度改革が実施され、市場経済に対応できるように工場長は生産管理の全権をにぎることになった。84年には独立採算制が導入され、さらに94年には会社法が施行されて国有企業の株式制がすすめられている。しかし、93年の赤字は361億元にのぼり、失業者も100万人といわれる状態で財政的・社会的な問題を生じるようになってきた。

6 エネルギー  エネルギー需給の特徴としては、石炭への依存度(74.8%)が高いこと、供給量の絶対的な不足などがあげられる。電力構成は火力が80%、水力が19%、原子力が1%となっており、1987年以降の発電量は、毎年400kWh前後のペースで増加しているが、成長をつづける工業生産の需要についていけない。95年の総発電量はアメリカについで世界第2位になった。電力消費の9割近くは工業などの生産部門が占め、生活消費は1割にとどまっている。世界的に注目される長江のサンシャ(三峡)ダムがすでに着工しており、2009年に26基の発電機が稼働すれば年間発電量846kWhと世界最大の水力発電所になり、中国の電力不足解消に大きな役割をはたすと期待されている。

7 交通  
古くから「南船北馬」といわれてきたように、北京など北部の町にウマやラクダのひく荷車が往来し、南部は船を重要な交通手段としてきた。現在も同じ光景がみられる。輸送手段は鉄道、水路、道路、航空、パイプラインの5つにわかれる。貨物輸送距離は鉄道と海上が圧倒的で、道路はそれらの3分の1程度にすぎない。旅客輸送は、長距離が鉄道で、短距離は道路が主体である。都市交通は北京、上海、天津、広州、青島に地下鉄が敷設されているほか、市民は企業保有の通勤バス、公共バス、自転車にたよっている。

道路の総延長は119kmで日本をわずかにうわまわる。各県はすべて道路でむすばれている。高速道路は1986年まではゼロだった。その後、上海や広東省などで30km前後の短距離の高速道路が建設され、最初の長距離高速道路は、90年に開通した瀋陽〜大連間(376km)だった。96年末の自動車の保有台数は1100万台で日本の約7分の1にすぎない。同年の交通事故死者数は73655人に達した。

中国では汽車のことを「火車」という。鉄道は中国のもっとも重要な輸送手段である。1876年に最初の鉄道が敷設されて以来、1996年には鉄道営業距離が56678kmになった。東北地区の鉄道がもっとも発達し、国内全体の21%を占める。北京と上海には年間乗降客が2500万人をこえる国内の主要な旅客駅がある。ホームは大きな荷物をもち、家族連れで移動する乗客であふれ、列車はいつも超満員の状態である。輸送能力に占めるSLの比率は20%前後に低下し、ディーゼル機関車が8000台をこえて主力となり、将来は電化を主力にする計画である。北京から上海まで全長1300kmの新幹線をはしらせようという計画がもちあがっている。貨物輸送では石炭が圧倒的に多く、全輸送量の40%をこえる。

航空路線は876路線(うち国内線757路線、国際線98路線)である。空港は142、国際便が発着する空港は北京、上海など10以上の空港、外国航空会社に開放しているのは28空港である。現在、日本からの直航便がある都市は北京、上海、大連、西安、広州、青島の6都市と香港。国営の中国民航は日本のJRのように国際、東方、北方、南方、西北、西南などの航空公司(会社)に分割された。ハイテク機から旧型機まで750機を保有している。需要が供給を大幅にうわまわっているのが現状で、鉄道とともに航空券の取得は容易ではない。

水路の貨物輸送距離は、全体の49%になる。年間取扱量が1000tをこえる沿海港湾は13あり、最大は上海港の16402tで、2位のチンホワンタオ(秦皇島)港は最大の石炭積み出し港である。国内河川の港湾は沿海の半分近くの貨物をとりあつかい、最大の南京港は4715tとなっている。東部平原を南北につらぬく世界最長の運河である大運河は年間5000tの貨物を輸送している。大阪・神戸〜上海、神戸〜天津、下関〜青島間では国際フェリーが就航している。

8 通信  電話は100人当たり6.3台とまだ普及率が低い。個人電話をもっているのは都市部の一部にかぎられている。数少ない公衆電話の補助としてポケットベルが急速に普及し、1995年末には利用者数が2800万人をこえ世界第2位になった。84年の静止衛星打ち上げの成功は、通信事情の改善に大きな役割をはたした。現在では2000余りの市・県のうち、443市・県が国際通信衛星を利用でき、196の国と地域に直接電話や電報ができるようになっている。長距離通信のデジタル化の割合が80%、市内電話交換機の電子化率が90%になった。

上海からドイツのフランクフルト・アム・マインまで、全長16000kmにわたる陸上光ファイバー通信線の中国区間が19958月に全線開通し、日本とは海底光ファイバーでむすばれている。通信網は上海や広東省などの沿海地域を中心に整備され、直通で外国に電話をかけられるが、地域によっては北京にかけるのさえ完全自動化されていない、といったように格差ははげしい。90年から都市部を中心に携帯電話がみられ、94年末には150万台をこえている。

9 商業  近年、商業の発展はとくにいちじるしく、1996年現在の小売商施設は1396万、従業員数は3189万人になった。おもに国有、集団所有の商店のほか、自由市場の発展とともに個人、私営の商店が急速にふえている。上海、北京、天津、広州などが商業中心地である。92年以降、小売・流通業への外国資本の進出がみとめられ、上海では95年の末に日本の大手流通企業との合弁でアジア最大規模をほこる百貨店が開店した。北京や上海の繁華街で西洋式のファーストフードであるケンタッキー・フライド・チキンと、中国式ファーストフードの上海「栄華鶏」が、「鶏肉戦争」をくり広げて話題になった。

10 通貨と銀行  通貨は中国人民銀行が発行するレンミンビイ(人民幣)RMBで、単位はユアン(元)、チアオ(角)、フェン(分)で、1=10=100分となっている。外貨準備高は1050億ドル(1996年末)。

中国人民銀行は中央銀行である。1994年に政策銀行として開発銀行、輸出入銀行、農業開発銀行の3行が設立された。そのほかに中国銀行など国有商業銀行4行、交通銀行などその他の商業銀行10行、5000余りの都市信用合作社、5万余りの農村信用合作社がある。非銀行系の金融機関としては国際信託投資公司、証券公司、財務公司、リース公司、保険公司などがある。

1994年末現在、世界の15の国と地域の金融機関が、国内の19都市に296の駐在所をおいている。国内13の金融開放都市では98の金融機関が営業をおこない、うち銀行が91、ファイナンス・カンパニーが4、保険会社は3である。それらはいずれもアモイ(厦門)などの経済特区や、上海などの主要沿海都市に限定されている。日本の銀行で支店開設したのは13都市のうち、上海など5地域、20支店に限定されている。このうち上海がもっとも多い。

11 外国貿易  1996年の貿易額は2899億ドルで、輸出は1510億ドル、輸入は1388億ドルで122億ドルの貿易黒字を計上した。貿易依存度(GDPに対する輸出入額の比)は35.6%に達し、国民経済の対外貿易への依存が大きくなっている。

1996年の中国の輸出相手先とその比率は、香港(21.8%)、日本(20.4%)、アメリカ(17.1%)、輸入先は、日本(21.0%)、アメリカ(11.6%)、台湾(11.6%)だった。日本は93年に香港をぬいて、はじめて中国にとって最大の貿易相手となった。96年の対日貿易総額は6005830万ドルで、貿易全体に占める割合は約20%となっている。

12 観光  
雄大な自然、黄河文明以来の長い歴史と文化をもつ中国は、観光資源にめぐまれた国で、世界遺産に登録された文化遺産は14件、自然遺産は3件、複合遺産は2件をかぞえる。世界観光機構によると中国は、世界十大観光地中の第8位になっている。観光業はここ十数年来ようやく新興産業として発達してきた。これまでに12の国家クラス、60以上の省クラスのレジャー地区が計画された。外国人観光客数は1980年の53万人から、96年の674万人に急増した。そのうち日本人が155万人ともっとも多く全体の23%になる。96年の観光による外貨の収入は102億ドルに達している。国際、中国、青年の三大旅行社をはじめ、国内には1500社をこえる各種の旅行会社がある。北京、上海、西安は中国の三大観光都市として知られるほか、タイ族の水かけ祭や、内蒙古大草原の旅なども多くの観光客をひきつけている。

VI 政治  
1982年に制定された憲法の規定では、中国は「労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした、プロレタリア階級独裁の社会主義国家」としている。

1 立法  国家の最高権力機関、日本の国会にあたるのは全国人民代表大会(全人大)で、立法権を行使するほか、行政、司法機関および中央軍事委員会の主要人事を決定するとともにその活動を監督し、国家予算を審議し、その執行を監督する。

全人大は省、直轄市、自治区および軍隊が選出する代表から構成され、定員は3000名以内で、任期は5年、毎年1回大会が開かれる。現在の第9期全人大代表(国家議員)は20033月にその任期をおえることになっている。

全人大常務委員会は全人大の常設機関で、委員長、副委員長、秘書長、委員から構成され、任期は5年である。地方の省、県、郷(鎮)クラスにそれぞれ日本の議会に相当する人民代表大会が組織されている。

県クラス以下の人民代表(議員)は、満18歳以上の公民によって直接選挙でえらばれ、省クラス以上の人民代表(議員)は、1級下の人民代表大会によって無記名投票による間接選挙でえらばれる。選挙費用はすべて政府が支出する。

2 行政  最高の行政機関は中央人民政府、すなわち国務院で、法律にもとづいて諸行政をおこない、決議や命令を発布し、これらの実施状況を審査する。国務院は総理、副総理、国務委員(地位は副総理に相当)、各部部長、各委員会主任、審計(日本の会計検査院に相当)長、秘書長から構成される。任期は5年で、総理、副総理、国務委員は3選が禁止されている。国務院の構成メンバーは全人大でえらばれた国家主席がまず総理を指名し、総理が副総理や各部局の責任者を指名して、全人大の承認をへて国家主席が任免することとなっている。19986月現在の国家主席は江沢民、総理は朱鎔基である。

3 司法  司法機関は警察、裁判所、検察からなる。日本の警察庁の機能をはたすのは国務院に属する公安部である。さらにスパイや反国家活動を監視し摘発する国家安全部が1983年に設置された。地方の治安機関は公安局(庁)、国家安全局とよばれる。日本の最高裁判所にあたる最高人民法院以下、高級、中級、基層の4級の人民法院がおかれ、これに対応して日本の最高検察庁に相当する最高人民検察院以下、省、地区、県の人民検察院がある。基本的には二審制が実施され、最高刑は死刑である。日常的なもめごとの処理は法にもとづく裁判よりも人民調停委員会がよく利用される。

4 政党  中国共産党の指導のもとでの多党参政制がとられている。指導政党(執政党)である共産党のほか、参政党として中国国民党革命委員会など8つの民主党派がある。

労働者階級の前衛である中国共産党が、国家を指導することは国是として憲法に明文化されている。1949年の建国以来、中国は事実上、共産党の一党独裁下にある。共産党は国家機関や社会組織の隅々まで根をはっている。

中国共産党は1921年上海で創立され、現在の党員数は約5700万人といわれている。共産党の意思決定メカニズムは党員、全国代表大会、中央委員会、中央政治局、政治局常務委員会、総書記という関係からなっている。党内では「民主集中制」がとられている。民主とは党員の意思をつみあげていき、党全体の意思を決定することで、集中とは民主とは逆に個人党員は指導機関の決定に絶対的に服従し、下級の機関は上級機関にしたがうということである。

5 防衛  軍隊は中国人民解放軍といい、19278月の南昌蜂起の中から生まれた。国内にあっては人民のための軍隊で、共産党の指導にしたがうという原則を堅持してきたこと、対外的には他国への勢力拡大や侵略を目的とせず、自国への侵略にそなえるための軍隊であるとされてきた。これは中国軍が革命の中から誕生したことによっている。

国家中央軍事委員会が中国の軍事指導機関で、武力の最高統帥権をもち、全国人民代表大会でえらばれた主席、副主席、委員から構成される。

1980年代から軍の近代化と軍備増強に力がそそがれ、近年では国防費の大幅な増加傾向、海軍力強化のため航空母艦の建造計画などがみられる。96年の国防費は715億元、対GDP比は1.1%だが、実際にはかなりうわまわるとみられている。総兵力は284万人で、戦闘機、原子・水素爆弾、ミサイルなどの現代的な兵器で装備されている。陸軍は209万人、海軍は28万人で54隻の主要水上戦闘艦をもち、空軍は47万人で3740機の作戦機をもつ。

7つの大軍区(方面軍)が国内に展開し、また現代の戦争に対応した各兵種の混成した「集団軍」が編成されている。そのほかに武装警察部隊が組織されている。

VII 歴史  中国の歴史は、黄河の流域にはじまり、万古が天と地と人を生みだしたとされるが、これは神話的な伝説である。

北京に近い周口店から約50万年前にさかのぼるシナントロプス・ペキネンシス( 北京原人)の人骨が発見されており、オルドスその他の地域からも旧石器時代の人骨や遺物が出土している。

5000年ごろ、黄河の中流域を中心に、初期農耕がおこなわれるようになって以後、新石器文化であるヤンシャオ(仰韶)文化が生まれた。この文化は、彩陶(彩文土器)を特徴とし、のちに黒陶を特色とするロンシャン(竜山)文化に発展して、すでに新石器文化の生まれていた長江流域にも広まった。

1 伝説の王朝  黄河のながれる華北は、降雨は少ないが、耕作が容易で養分にとむ黄土にめぐまれ、アワやキビなどの畑作が発達した。長江流域の華中や、その南の華南では高温多雨の気候によりイネの栽培が広がり、また、犬や豚を家畜とし、ヒツジや牛の飼育もはじまった。このころの人々は灰陶とよばれる土器や、磨製の石斧、石鎌(いしがま)などをつかい、泥壁や竪穴(たてあな)の住居にすんだ。その後、邑とよばれる集落が発達し、その周囲には外敵などから身をまもるための土壁をめぐらしたが、やがて、有力な邑が周りの邑をしたがえるようになり、各地に都市国家が生まれていった。

伝説では、夏という王朝があったとされ、その最後の王が暴政によって人民を虐待し、そのため殷(商)にほろぼされたとされるが、夏王朝の存在は考古学的には確認されていない。

2  
1600年ごろ、黄河の中下流域に、多くの都市国家を支配する王があらわれたが、これが現在のところ最古の王朝と考えられている殷である。河南省北部の安陽から殷代後期の都の跡とされる殷墟が発見され、当時のようすが明らかになった。殷墟には宮殿や住居の跡があり、地中深くにつくられた王の墓には、多数の殉死者や副葬品がうめられていた。


殷の王は、亀の甲羅(こうら)や牛の骨などをやいてできるひび割れによって神の意志を占い、それにもとづいて政治をおこなっていた。占いの結果を記録するためにもちいられた甲骨文字は、その後、書体の変遷をへて漢字へと発達した。


殷では、畑作農業がおこなわれ、養蚕もはじまっていた。青銅器の製造技術も発展し、祭器や武器などの遺物が多数出土している。

3  11世紀ごろ、殷は西方から勢力をのばした周(西周)にほろぼされた。周は現在の西安近くの鎬京を都として長江流域まで支配地を広げ、王の一族や手柄をたてた家臣、あるいは地方の都市国家の支配者を諸侯に任じた。領地をあたえられた諸侯は、周の王に服従し、貢納と従軍の義務をおったが、このような仕組みを「封建制度」という。諸侯の地位は世襲され、城壁にかこまれた邑(都市)にすんで領地を支配し、しだいに自立するようになっていった。

周の時代にも、殷代にひきつづいて高度な技術による青銅器文化が発達した。貴重品だった青銅器は、王や諸侯たちがつかう武器や、神に酒や肉をそなえる器として利用され、動物や怪獣の複雑な文様がつけられているものが多い。一方、農民たちの農具や生活用品には、なお石器や木器がつかわれていた。

周代には、農地を9等分して、8区画に農民を生活させ、中央の1区画の収穫を税としてとる「井田(せいでん)法」がおこなわれたという。その実態は不明だが、その理念は以後の王朝にも理想的な社会のあり方としてうけつがれた。

周の王は天から支配を託されたとみなされ、天と祖先への崇拝を中心とする祭祀(さいし)をおこなった。また、諸侯は、それぞれの土地の神と祖先をまつり、人民はそれぞれの祖先を崇拝し祭りをおこなった。このような祖先祭祀を重視する社会制度を「宗法」制度といい、この考え方も、のちの社会に長くうけつがれた。

4 東周  周はやがて内乱と西北の民族の侵入でおとろえ、前8世紀前半には首都の鎬(こう:現、西安市西郊)からおいだされ、周の王族は都を東の洛邑(らくゆう:現、洛陽)に移した。以後を東周とよび、そのうち前5世紀末までを春秋時代(前770〜前403)、その後を戦国時代(前403〜前221)という( 春秋戦国時代)。東周は、西周のように強く諸侯を支配する力はなく、前256年にほろんだ。

春秋時代から戦国時代にかけて、鉄器がつくられるようになると、生産力が増大し、諸侯の国は強大化した。黄河は洪水をおこすと、ときには河口が数百キロも移動するほどだったため、それまで大きな邑は、わき水のある丘陵地に点在していたが、鉄が土木用具にも活用されるようになると、大規模な堤防や用水路の工事が可能となり、黄河流域の大平原の開墾がすすんだ。また、鉄製の犁(すき)を牛にひかせる農法が普及して農業生産が増大すると、人口が増加し、商業や手工業も盛んになって、各地で青銅の貨幣もつくられるようになった。

こうして、春秋時代には力をたくわえた諸侯が周の王をいただいて中原に覇をきそうようになった。諸侯はきそって富国強兵につとめ、周辺地域では、他の民族から騎馬装甲部隊などの新たな軍事技術をとりいれたりした。さらに戦国時代になると、有力な諸侯がみずから王を名のって、はげしく争うようになったが、その中でとくに有力だった秦(しん)、楚、燕、斉、韓、魏、趙(ちょう)の7国は、「戦国の七雄」とよばれる。

5 中国思想の黄金時代  
不安定な社会の中で、その後2000年の中国の歴史に大きな影響をおよぼす政治制度や社会思想がつくられていった。諸侯や王たちが、富国強兵のために、きそって有能な人材をあつめたことから、産業、思想、学術が発達し、諸子百家とよばれる多くの思想家とさまざまな学説が生まれた。

魯の国の下層貴族の家に生まれた孔子は、周の制度を理想とし、仁の思想をもとに、孝や悌(てい)の家族道徳を重んじた。道徳的にすぐれた人々が役人となって人民をみちびき、社会を安定させようと説く孔子を祖として、儒家( 儒教)の思想がつくられた。これに対し老子や荘子らの道家( 道教)は、人為的で形式的な儒家の道徳を批判し、ありのままの自然が理にかなうと説いた。さらに、韓非子らの法家は、法律や賞罰を厳密にし、経済活動を統制し、権力を君主に集中することによって国家をおさめる術(すべ)を説いた。

6 秦―統一帝国の誕生  
戦国時代に西の辺境にあった秦は、前4世紀に、法家の思想を採用して、政治・経済・軍事制度の改革に着手し、急速に強国となった。政(せい)が国王となると、他の国々を次々にほろぼし、前221年に中国の歴史上はじめての統一王朝をたてた。政は新たに皇帝という称号をつくり、始皇帝と名のった。


秦は、全国を36の郡にわけ(のちに48郡)、その下に多くの県をおき、都の咸陽(現、西安付近)から官僚を派遣して直接に地方を統治した。このような制度を郡県制といい、以後の歴代王朝にうけつがれた。始皇帝は、法家の思想にもとづくきびしい刑罰による支配をおこなった。法家以外の諸子百家の思想は弾圧され、前213年に医薬、卜筮(ぼくぜい)、農業関係以外の書物をやきすてたり、翌年には統制を批判する学者を生き埋めにしたりした(焚書坑儒)。また、文字の統一をはかって全国に小篆(しょうてん)という書体を普及させ、交易を促進するために国内の道路を整備し、度量衡や貨幣などを統一した。


対外的には、北方の有力な遊牧騎馬民族である匈奴を圧倒し、万里の長城を修築して侵入をふせいだ。南方では、雲南やベトナム北部まで勢力をのばし、西は現在のランチョウ(蘭州)付近まで制圧した。こうして、始皇帝の時代に今日の中国本土の領域がほぼできあがり、また秦の字音から、英語のチャイナという言葉が生まれた。

しかし、始皇帝がすすめた大規模な事業や対外戦争は、農民たちをくるしめ、地方有力者の反発をまねいた。始皇帝が死ぬと宮廷に権力闘争がおきて政治は麻痺し、陳勝・呉広の乱とよばれる大規模な農民反乱がおき、まもなく秦は滅亡した。

7 前漢  
秦末の反乱と戦争をへて、前202年、農民出身の劉邦が楚の武将項羽をやぶって全国を統一し、都を長安(現、西安)において漢(前漢。中国では西漢とよぶ)をたてた。高祖(劉邦)は、秦の郡県制を変更し、封建制をとりいれた郡国制を採用して、極端な中央集権化をさけた。また、きびしい法律を緩和し、税金をさげ、統制をゆるめて経済の回復をはかった。しかしその後、しだいに地方の王や諸侯など有力者の力を削減し、前2世紀の武帝(在位、前140〜前87)のころには、全国を郡県制で支配する体制がほぼできあがった。

漢は武帝のときに董仲舒の勧めで五経博士をおき、これによって王朝公認の思想として儒学が採用されたが、それとともに、民間の迷信に類するものもふくめてさまざまな思想が儒学の考え方の中にとりこまれた。また、儒学の道徳を身につけた者を官僚としてえらぶため、有徳者を地方長官の推薦で官吏に登用する郷挙里選がおこなわれた。

前漢は武帝のときに絶頂期をむかえ、充実した経済力と軍事力をつかって、積極的な領土の拡大にのりだし、東北地方南部や朝鮮半島北部、海南島やベトナム北部に遠征軍をおくり、各地に郡県を設置して広大な領土をきずいた。また、ふたたび強大化していた匈奴を挟み撃ちにすることをねらって、張騫を中央アジアの大月氏国に派遣した。この計略は失敗におわったが、これによって西域のようすがつたえられ、中国王朝が西方に勢力を拡大する道を開いた。

しかし、武帝のこうした積極策は、それまでにたくわえられてきた国家財政の余剰を食いつぶした。武帝は税を重くしたり、塩、鉄、酒などの重要物資を専売制にして、財源を確保しようとしたが、社会不安は増大していった。

武帝の死後、おさない皇帝がつづき、外戚や宦官が政権をにぎるようになった。地方では広大な土地を所有する豪族が勢力を強め、納税を拒否するようになった。負担は小農民に集中し、彼らの生活はいっそうくるしくなった。そのため、各地に流民がふえ、農民の蜂起もみられるようになった。

8  このような混乱の中で、1世紀の初めに野心的な外戚の王莽が漢から帝位をうばって新王朝(後823)をたてた。王莽は周の制度を範として、豪族の土地私有を制限したり、商人を抑圧して国家の財政を再建しようとした。しかし、これらの政策は豪族の反対により挫折し、農村の秩序はいっそう混乱し、まもなく、山東に赤眉の乱などがおき、新は滅亡した。

9 後漢  王莽に対する諸反乱の中で漢室の一族と称する劉秀(光武帝)が台頭し、豪族たちにおされて洛陽に都をおき、漢(後漢。中国では東漢とよぶ。25220)を復興した。後漢は、成立の当初から中央政府の力が弱かったが、建国後しばらくは政治的には安定していた。

光武帝は、対外的には匈奴をやぶって西域への勢力拡大をすすめ、とくに、将軍班超の遠征により、カスピ海にいたる西域の50余りのオアシス国家を服属させ、ローマの東方領域にまで使者をおくった。こうして、オアシス都市をむすぶシルクロード(絹の道)が発達し、これを通じて東西貿易や文化交流が盛んになった。

また、秦・漢400余年の間に、皇帝を頂点とする官僚組織が定型化され、「漢字」や「漢民族」などの言葉にみられるように、中国独自の文化のかたちがほぼ確立した。とくに武帝のときに官学となった儒学は、専制王朝の支配を裏づける思想として、その後の歴史にうけつがれていった。また漢の文化は長江をこえて南に発展し、西方につたわり、さらに朝鮮や日本などの東の周辺諸地域にも、大きな影響をあたえることとなった。

紀伝体をもちいて、司馬遷が「史記」を、また、紀伝体とともに断代史のかたちをとって班固が「漢書」をあらわした。これらの書物はその後長く公式な歴史書(正史)の模範とされただけでなく、文学としてもすぐれたものであった。工芸では青銅器や絹織物、漆器が発達し、また漢代に発明された紙の製法は、のちにイスラム世界を通じてヨーロッパにもつたえられた。

このころの日本は弥生時代にあたり、「漢書」によれば100余りの小国にわかれていたが、朝鮮におかれた漢の楽浪郡に使節をおくっていた。後漢の初めには倭(わ)の奴国(なこく)の王が、洛陽に朝貢の使者をおくっており、江戸時代に九州で発見された金印( 委奴国王印)は、光武帝からあたえられたものと考えられている。

2世紀になると、外戚の権力闘争や官僚の派閥争い、宦官の政治への介入などで、政治の混乱がつづき、同世紀後半には、官僚勢力と宦官のはげしい闘争が発生し、ついで、華北の黄巾の乱や四川の五斗米道の乱など、大規模な農民反乱が各地でおきた。豪族たちも後漢からはなれ、皇帝の権威は名ばかりとなった。

10 魏晋南北朝  後漢末の諸反乱を制圧したのは、私的な軍事力を拡大していた武将曹操らであった。曹操は華北一帯を支配し、その息子曹丕(そうひ)は、後漢最後の皇帝献帝から帝位をゆずりうけて魏(220265)をたてた。一方、これに対抗して江南には孫権が呉を、四川には劉備が蜀をたてて、三国時代をむかえた。こうして黄巾の乱から隋による統一まで、約4世紀にわたって政治的な分裂の時代がつづくことになる。魏の武将司馬炎は、魏をたおして西晋(265316)をたて、一時南北を統一したが、まもなく匈奴にほろぼされた。こうして、北方から多くの民族がはいってきて各地に王朝をたてる五胡十六国の時代となった。

他方、滅亡した西晋の一族は江南にのがれて、317年に建康(現、南京)を都として東晋をたてた。その後江南には宋など4つの王朝(南朝)が次々に交代した。華北では五胡のひとつの鮮卑がたてた北魏(386534)が強大化し、420年に建国した南朝の宋と対立した。これ以後を南北朝時代という。北魏は孝文帝のときに、都を平城(現、大同)から洛陽にうつし、漢民族の文化をとりいれて支配体制の整備をめざした。しかし、そのためにしだいに遊牧民族の特色をうしない、武力も弱まって、分裂をくりかえすこととなった。

この魏・晋から南北朝の時代は、政治的には分裂と混乱の時代だったが、漢民族全体にとっては、周辺諸民族からの刺激をうけた、活気にみちた時代でもあった。この時代に、豪族は開墾や小農民の土地の併合によって、ますます勢力を拡大し、小農民の多くは、五胡の侵入と戦乱によって土地をうしない、流民となったり、豪族の奴婢(奴隸)になった。税を負担する小農民が没落したため、財政をおびやかされた王朝は、さまざまな土地政策を実行して、豪族の大土地所有をおさえ、小農民を確保しようとした。なかでも、一定の土地を農民にわりあてる北魏の均田制は、北朝をへて隋・唐にひきつがれた。

この時代には、北方民族の侵入をさけて、漢民族の多くが南へのがれたため、江南の開発がすすみ、人口も増加した。豪族は、魏からはじまった九品官人法という官僚の採用制度によって王朝の要職を独占し、それを子孫にひきついで門閥貴族を形成した。彼らは文化の担い手でもあって、とくに南朝では貴族文化が繁栄したが、この文化は江南の呉以降の6つの王朝にちなんで、六朝(りくちょう)文化とよばれる。詩に陶淵明(陶潜)、書に王羲之、絵画に顧ト之らがすぐれた作品を生みだした。

漢代に西域からつたえられた仏教は、南北朝時代に急速に広まった。西域やインドから布教僧がおとずれる一方、法顕のようにインドにでかけて経典をもちかえる僧侶もあらわれた。仏教は、南朝では貴族を中心に信仰され、北朝では王朝の権力とむすびつき、敦煌や雲岡、竜門などには大規模な石窟寺院がつくられはじめた。また、神仙思想や老荘思想も歓迎され、貴族たちは不安の多い現実をはなれて自由な生活をのぞみ、清談が流行した。こうした中で、不老長寿と現世の利福を説く道教が、北魏の時代に寇謙之(こうけんし)らによって宗教として成立し、民衆の間に広まった。

11 隋―統一帝国の再建  
589年、北朝からでた隋の文帝(楊堅)が、長安(現、西安)に都をおき、ふたたび中国を統一した。文帝は北朝の体制をうけついで律令をさだめ、土地制度では均田制、軍事面では農民を兵士とする府兵制をしき、中央集権につとめた。また、九品官人法をやめて、学科試験によって官僚を採用する科挙をはじめた。

また、文帝と煬帝は、物資の豊かな江南と政治・軍事の中心地華北をむすぶ大運河を建設し、これは以後、中国経済の大動脈となった。また、万里の長城の大規模な改修もすすめた。しかし、これらの大土木事業や朝鮮の高句麗への3度におよぶ遠征などは、農民の生活をくるしめ、その結果各地に反乱が発生、618年に煬帝は殺され、統一後わずか30年ほどで隋は滅亡した。

12 唐―華やかな王朝  隋末の混乱の中で、618年、高祖(李淵)が長安を都に唐をたてた。中国の歴史上もっとも華やかな王朝である唐の基盤は、高祖とその子太宗(李世民)の時期にきずかれた。領土は漢をしのぐ大きさとなり、西方のイスラム帝国と拮抗する大帝国となった。その後、則天武后が皇帝となって国号を周とあらため、唐王朝を中断させる事件がおきたが、8世紀の前半に、玄宗が繁栄を回復した。

唐は、律や令などの法典を整備し、中央に三省と六部をおく官制をかためた。官僚は隋からうけついでさらに整備した科挙によって採用されるようになり、しだいに門閥貴族が没落して新しい支配層があらわれた。科挙はその後の各王朝にうけつがれ、20世紀の初めまで中国の社会体制に大きな影響をあたえた。

農民には、均田制によって耕地をわりあて、租庸調および雑徭などを負担させて財政をまかなった。また、兵農一致の府兵制を整備して、農民を軍隊に動員した。新たに征服した周辺地域には、都護府が設置され、役人や軍隊が赴任して諸民族を支配した。

唐の時代に、華北の畑作地帯ではコムギの栽培が広まり、江南では米の生産が増加した。また、チャ、サトウキビ、綿花などの栽培が普及し、地方の都市や農村でも商業が盛んになった。さらに、唐代には東西貿易がさかえ、陸上からはイラン系の商人がラクダの隊商をくんでオアシス都市を往来し、海上からはアラブのイスラム商人の商船がインド洋をへて広州など華南沿海の港市に来航した。都の長安は人口100万をこえ、イスラム帝国のアッバース朝の都バグダッドとならぶ国際都市として繁栄した。

唐では、王朝の繁栄と東西交流を背景に、国際的で貴族的な文化が花開いた。文学では、李白や杜甫、白居易らがすぐれた詩(唐詩)をつくり、美術では、山水画が発達し、顔真卿らがすぐれた書をのこした。仏教はますます盛んになって、陸路でインドにはいった玄奘や海路によってやはりインド入りした義浄らは、大量の仏典をもちかえり、それらを漢訳した。仏教のほかにも、ペルシャのゾロアスター教やマニ教、ネストリウス派のキリスト教(景教)、イスラム教など多様な外来宗教がつたえられ、それらの寺院もたてられた。

中国には古来、世界の文化的な中心としてみずからを位置づけ、周辺地域にその文化が波及していくという観念がつくられていた。中心を「華」、周辺を「夷」とするいわゆる中華思想である。中国王朝の皇帝は、周辺諸地域の首長を王や諸侯に任命し、王や諸侯は皇帝に朝貢使節をおくった。このような国際的な君臣関係を冊封体制というが、朝貢にともなう貿易も盛んにおこなわれた。唐の時代にはこのような関係が東アジア一帯に確立し、漢字、儒学、仏教、律令制度などが周辺諸国にも広がって、東アジア文化圏が形成された。

朝鮮では、楽浪郡がほろんだのち、北部の高句麗、南部の百済と新羅の3国がならびたったが、やがて7世紀の後半に新羅が半島を統一し、唐の制度や文化をとりいれた。日本でも国内の統一がすすみ、遣隋使や遣唐使をおくって、隋・唐の制度や文物の導入につとめた。

中国東北の地域には7世紀末に渤海国が成立し、また、チベットには7世紀初めに吐蕃がおこり、勢力を拡大し、唐へも侵入したが、しだいに唐文化をとりいれた。モンゴル高原では、鮮卑についで柔然が強大化し、さらに6世紀中ごろには突厥が中央アジアにおよぶ大帝国をつくったが、隋・唐との争いで分裂し衰退すると、8世紀の半ばにはウイグルがモンゴル高原を支配した。これらの遊牧騎馬民族は、中国文化の影響をうけつつ独自の文化を発展させ、民族文字をつくりだした。

13 唐の混乱と衰退  
玄宗は、賢臣にたすけられて唐の繁栄を回復したが、そのころには、有力者の荘園が拡大して均田制がくずれていき、府兵制も維持できなくなった。かわって募兵制がとりいれられたが、辺境に設置された募兵集団の指揮官、節度使は、民政や財政の権利もにぎって勢力を強めていった。とりわけ安禄山は、玄宗にとりいって3つの節度使をかねるほどの大勢力となった。

その後、玄宗は楊貴妃を寵愛(ちょうあい)して政治をおこたるようになり、楊貴妃の親族が宰相になるなど権勢をにぎったため、安禄山との間に権力闘争がおこった。755年、安禄山は史思明とともに反乱をおこし(安史の乱)、10年近く戦乱がつづいて国土は荒廃した。均田制や府兵制の崩壊とともに租庸調の税制もゆきづまり、かわって土地や財産に年2回課税する両税法が考案された。節度使は安史の乱後は内地にも設置されて、軍事力を背景に各地に割拠し、唐王朝の力がおよぶのは長安の周辺にかぎられるようになった。

唐の後期には、文化や社会にも大きな変化がおきた。繁栄する仏教文化に対して、儒学の伝統を重視する勢力や道教が巻き返しをはかり、845年には武宗による大規模な仏教弾圧がおこなわれた。約45000の仏寺や道場が破壊され、26万もの僧、尼僧が還俗させられ、さらに仏教以外の宗教信仰にも規制が強まった。経済の面では、手工業者の同業組合が生まれ、手形や紙幣がつかわれはじめた。

9世紀の末に、山東のヤミ塩商人の黄巣らが反乱をおこすと、生活にくるしむ農民たちが続々とくわわって反乱は全国に拡大し(黄巣の乱)、907年、唐はそうした混乱の中で節度使朱全忠にほろぼされた。唐の滅亡後、華北には約50年の間に5つの王朝がめまぐるしく交代し、そのほかの地方にも10余りの国が興亡したが、この時代を五代十国という。唐末から五代の時期に、門閥貴族は没落し、かわって節度使のような武将や、彼らとむすびついた新興の地主層が支配階層となった。また、モンゴルから東北の地域には契丹族が遼(9161125)をたて、華北に進出して現在の北京周辺一帯(燕雲十六州)もその勢力下にはいった。

14 北宋―文化の成熟と異民族の支配  960年、節度使のひとりだった趙匡胤(ちょうきょういん:太祖)が宋(北宋)をたて、河南の開封に都をさだめて全国を統一した。太祖は節度使を廃止ないし名目化して、文人官僚による支配の仕組みを強化した。科挙の制度に皇帝みずからが試験をおこなう殿試を導入し、官僚を皇帝に直属させて、独裁の強化をはかった。

唐末から五代の変動の中で、周辺諸民族の離反や自立がすすみ、ベトナムには李氏大越国(リ朝)が成立、雲南の地域では南詔にかわって大理がおこった。朝鮮では高麗が新羅をたおし、日本でも、遣唐使の廃止以後、藤原氏の摂関政治をへて、武士の政権が誕生した。

モンゴル高原や東北に台頭した新しい勢力は、しだいに宋を圧迫するようになった。契丹族がたてた遼は、926年に渤海をたおして大勢力をきずき、華北に侵入した。宋は燕雲十六州をとりもどそうとして遼との戦いにやぶれ、1004年、宋を兄、遼を弟とし、遼へ毎年銀や絹をおくることをさだめた和議をむすんだ。西北の地域ではタングート族の西夏がおこり、東西交通の要衝をおさえ、宋を圧迫した。44年、宋は西夏とも、毎年銀や絹、茶などをおくる約束をした。

宋の文治主義は、官僚の増加や行政の複雑化をもたらし、軍事力の弱体は周辺民族からの圧迫をいっそうまねくことになった。この政治の混迷と財政難を打開するため、1070年に神宗の宰相となった王安石は、富国強兵のための改革を断行した。王安石の新法とよばれるこの改革は、自作農を育成し、大地主や商人の力をおさえて国家財政と軍備の立て直しをねらったもので、一定の成果をあげたが、司馬光ら旧法党の猛反対にあって挫折、政治路線の分裂と党派の争いは、その後も尾をひいた。

15 南宋  12世紀初めに、東北地方にツングース系の女真族が台頭して金(111534)を建国すると、宋は金とむすんで遼をほろぼしたが、かわって金が華北を圧迫するようになり、開封の都をおそって徽宗ら宋の皇族の多くをとらえた。このため、北宋は滅亡し、江南にのがれた皇族が、1127年、臨安(現、杭州)に都をおいて、南宋をたてた。南宋は金と和議をむすんで、淮河を境界とさだめ、金に臣下の礼をとって毎年銀や絹をおくった。

華北に侵入して中国風の王朝をたてた遼や金は、遊牧や狩猟にもとづく民族固有の生活と、農耕に従事する漢民族を分割して統治しようとした。これは、北魏の漢化政策と対照的な方法で、民族文化を維持するため、契丹文字や西夏文字など、固有の民族文字も考案された。

宋は軍事的には周辺諸民族におされて、唐のような大帝国にはならなかったが、社会、経済、文化などの面では、大きな変化と発展がみられた。新しい社会勢力として成長した地主層は、科挙によって官僚となり、さらに、塩や茶を専売する大商人をかねる者もあった。彼らは所有する農地を佃戸とよばれる小作人に耕作させ、収穫の約半分をとりたてた。このような土地制度は、明(みん)から清(しん)時代をへて中華民国の時期にいたるまで、中国社会の基本的な仕組みとして存続した。

江南の開発は大幅にすすみ、「蘇湖(太湖をかこむ蘇州・湖州一帯の地域)熟すれば天下足る」という言葉にみられるように、長江下流域が経済の中心となった。江南では、沼地を干拓して水田を切り開くとともに、新しい水稲品種が普及し、さらに米の裏作としてコムギなどを栽培し、年2回穀物を収穫するようになった。

石炭をつかう鉄の精錬法が開発されて鉄製農具の大量生産がすすみ、また茶や絹織物、漆器、陶磁器など、各地に特産物が発達し、商業も盛んになって、銅銭のほかに紙幣や手形の流通もめざましく、貨幣経済が発達した。海外からは、イスラム商人の商船が華南の港市に盛んに来航して海上貿易が繁栄した。都市の商人や手工業者がつくった同業組合の活動もめだってきた。

宋代の文化の担い手は、新興の地主層と都市の商人たちであった。儒学では、仏教の思想的な影響の中で、南宋の朱熹(朱子)によって朱子学(宋学)が大成された。朱子学は人間の本性や宇宙の原理についての探求をすすめるとともに、華夷の別や名分の議論を重視し、専制君主制をささえる理論として、儒学の正統とみなされるようになった。このような朱子学の考え方は、日本や朝鮮、ベトナムにも大きな影響をあたえた。

歴史では、司馬光が編年体による「資治通鑑」をあらわした。仏教では、禅宗や浄土教の教えが盛んになった。都市の発達により、庶民的な文化が生まれ、楽曲にあわせてうたう詞という文学が流行し、雑劇などの民衆演芸もおこった。美術では、山水を題材にした水墨画が発達し、景徳鎮など各地ですぐれた磁器が生産された。このほか、木版印刷術が普及し、火薬や羅針盤( コンパス)など科学技術の進歩もめざましかった。

16 モンゴルの支配  
南宋は、政治的な安定をいちおう維持していたが、北方に強力な勢力が登場してきた。1206年、チンギス・ハーンはモンゴルの諸部族を統一し、さらに各地を征服して、中央アジアから南ロシアをふくむ大帝国を建設した。チンギス・ハーンの死後も征服はつづけられ、中国では華北を支配していた金が34年にほろぼされた。チンギス・ハーンの孫のフビライ・ハーンは、モンゴル帝国の首都をカラコルムから大都(現、北京近郊)に移し、宋の制度にならって中国風に国号を元(12711368)とし、79年に南宋をほろぼして中国全土を征服した。

モンゴル帝国の形成によって中央アジアの交通ルートは安全になり、陸路の東西貿易が活発におこなわれた。西方から外交や布教のための使節が中国をおとずれ、さまざまな技術や食品・医薬などをつたえた。なかでも、ベネツィアの商人マルコ・ポーロは、長くフビライにつかえ、のちに「東方見聞録」をあらわして、元の繁栄をヨーロッパにつたえた。

元はモンゴル人第一主義をとって、儒学の教養をもつ漢人の官僚を軽視し、一時、科挙も廃止した。宮廷ではラマ教(チベット仏教)が盛んとなって各地に多額な国費をつぎこんで寺院が建立された。そうした莫大な出費と、日本やベトナム、ジャワなどへの遠征がくりかえされることによって、紙幣が大量に発行され、その結果、インフレで元の財政は破綻(はたん)した。さらに、凶作や黄河の氾濫(はんらん)がつづいて社会の不安が爆発し、1340年代には、各地で蜂起が続発した。そうした中で長江流域では、白蓮教徒を中心とする大規模な紅巾の乱が広がった。

17 明―漢人王朝の回復  
元末におきた紅巾の乱の指導者のひとり朱元璋(太祖洪武帝)は、各地の反乱をしずめながら、1368年に応天府(現、南京)を都として明王朝をたて、まもなく大都を制圧してモンゴル勢力を北方においはらった。こうして、ふたたび漢人の王朝による支配が回復した。

洪武帝は、国内の政治の立て直しにつとめ、皇帝の独裁体制を強化し、戦乱であれた農村の復興をはかった。宰相の制度をやめて皇帝が官僚機構と軍隊を直接支配することとし、科挙制度を整備し、新たに律令をさだめた。農民については、税をとる民戸と兵士をだす軍戸とにわけ、民戸には里甲制をしいて、「魚鱗図冊」とよばれた土地台帳や「賦役黄冊」とよばれた租税台帳をかねた戸籍簿をつくり、徴税の徹底をはかった。軍戸には衛所制がしかれ、辺境や内地の守りをかためた。また、儒教の徳目をしめして人民を教化するために、父母に対する孝順や、年長者への尊敬など六カ条の教訓(六諭)をさだめた。

15世紀の初め、クーデタ(靖難の変)で帝位についた永楽帝は、都を北京にうつして、モンゴル高原のタタールやオイラトの勢力にそなえるとともに、領土の拡大をはかって、しばしば軍をモンゴル高原に遠征させた。南方へも勢力の拡大をはかり、一時ベトナムを併合したほか、鄭和に大艦隊をひきいさせて何度も南海遠征をおこなわせた。最初の遠征には、60隻余りの船と2万数千人が参加したといわれる。遠征はあわせて7回おこなわれ、遠くはアラビア半島やアフリカの東岸まで達し、これによって多くの国々が明に朝貢するようになった。

しかし、永楽帝の死後はしだいに北方民族の圧力をうけるようになり、1449年には土木堡(どぼくほ)でオイラトが明軍をやぶり、皇帝英宗をとらえるという事件がおきた。その後、タタールも北方からの侵入をくりかえし、沿岸地方では、倭寇による略奪がはげしくなった。明はこの「北虜南倭」にくるしみ、しだいにおとろえていった。

明の後期になると、ヨーロッパと中国との海上交易が盛んになった。16世紀の初めに渡来したポルトガル人は、1557年、明から通商の拠点としてマカオの居住許可をあたえられ、ついで、スペイン人やオランダ人が中国との通商にくわわった。イエズス会の宣教師たちは、キリスト教布教のかたわら、ヨーロッパの科学技術をつたえ、マテオ・リッチと親交をむすんだ徐光啓のように、洗礼をうける知識人もあらわれた。また、宣教師たちがヨーロッパにつたえた中国の文化や制度についての情報は、啓蒙思想などに影響をあたえたという。

明は江南を根拠地として中国を統一した唯一の王朝だった。これは江南の開発がじゅうぶんにすすんだことをしめしており、明代には長江中流域が穀倉地帯となり、下流域は綿業や絹織物が盛んになった。またメキシコや日本の銀が流入して、明の末期には貨幣経済が発達し、それにともなって、江南の都市を中心に新しい文化が芽生え、朱子学を批判する思想家もあらわれた。

しかし、明末期の政治は官僚の派閥争いや宦官の暗躍などで混乱し、一条鞭法による税制の改革などで王朝の立て直しがはかられたが、成功しなかった。16世紀末には、豊臣秀吉の朝鮮侵入に対して、李氏朝鮮に援軍をおくらなければならず、17世紀にはいると、東北地方に勢力をのばしていた女真族との戦争や国内各地の反乱討伐のための戦費もかさみ、王朝の財政は破綻してしまった。

18 満州族の清  
清王朝は、女真族(満州族)がたてた王朝でありながら、その時期に現在の中国の基盤がかたまったという点で、重要である。明の衰えに乗じて東北地方で勢力を拡大した満州族は、1616年にヌルハチ(太祖)が後金を建国し、次のホンタイジ(太宗)のとき、国号を「大清」とさだめた。


明朝は、李自成にひきいられた大規模な農民反乱により、1644年に北京を占領されて滅亡したが、清は山海関をまもっていた呉三桂らの明軍の協力をえて、反乱の討伐を名目に華北に軍をすすめ、李自成をおいはらって北京に政権をたてた。

清は、明の制度を継承するとともに、独自の八旗の軍制にもとづく強力な軍事力により中国全土の征服をすすめた。第4代の康熙帝は、呉三桂などがおこした三藩の乱を鎮圧し、また、オランダ人をおいだして台湾を拠点に独自の勢力をきずいていた鄭氏( 鄭成功)を撃破して、中国本土の統一と台湾の領有をなしとげた。この康熙帝から、次の雍正帝、さらに乾隆帝による、あわせて1世紀半におよぶ治世が清朝の最盛期であった。

たび重なる遠征により、モンゴル、東トゥルケスタンのジュンガル、チベットなど広大な領域が清朝の支配下にはいったが、清はこれらを藩部とよび、理藩院をもうけて統治した。中央政府は満・漢併用の官制をとり、藩部以外の直轄地には、省をおいて中央から官僚を派遣した。雍正帝は、諮問機関として軍機処をもうけ、すべての政務をみずから直接さばこうとした。これにより、皇帝の独裁体制は頂点に達した。

清はまた、多数の漢人を支配するため、反清思想の弾圧、辮髪の強制など、強圧策をとる一方、儒学にもとづく伝統文化を保護し、科挙制度を整備する政策をとった。また、多くの学者を動員して大規模な編纂事業がおこなわれて、「康熙字典」「古今図書集成」「四庫全書」などがつくられ、明末以来の考証学は、厳密な学問研究の方法を発展させた。

19 乾隆帝の時代―中華帝国の繁栄  清は、それまでの明を中心とした東アジアの冊封・朝貢体制を継承した。朝鮮王国、琉球王国は藩属国として位置づけられ、頻繁に清朝皇帝のもとへ朝貢使を派遣した。さらに周辺地域への積極的な征服活動、および東アジアや東南アジアの商業交易の拡大の結果、ベトナムの大越王国をはじめとする東南アジアの諸王国や、中央アジアのいくつかのハーン国、ネパールのグルカ朝などが、清朝の朝貢国となった。

これは、中国王朝を中心として世界秩序を構成する、いわゆる中華思想の表れであったが、中国の皇帝が直接藩属国の内政に干渉することはほとんどなく、朝貢する側ではこのようなシステムを通じて、貿易の利益を確保することにおもな利点があった。

日本の江戸幕府は清朝と正式な国家関係、すなわち朝貢関係をむすばなかったが、朝鮮との通信関係や琉球の両属関係を通じて、このような秩序の中にくみこまれていた。広大な領土と豊富な物産をほこり、中国を世界の文化的な中心と考えていた清朝からすれば、陸上から東アジアに勢力をのばしたロシアや、海上からあらわれたイギリスなどのヨーロッパの国々も、清朝皇帝との間に直接の関係をつくろうとする点で、朝貢国のひとつにすぎなかった。

清朝は、ロシアとの間にネルチンスク条約、キャフタ条約をむすんで、外モンゴルでのロシアとの国境交易に統制をくわえようとした。海上交易については明の海禁を継承し、とくに1757年以後は、ヨーロッパ人との取り引きを広州の公行とよばれる特許商人を通じた交易のみに制限した。インドの植民地化をすすめていたイギリスは、18世紀に中国産の茶の需要が急増したこともあって、中国への関心を深め、1792年にはマカートニー使節団を派遣し、交易の拡大と通商拠点の確保をもとめたが、乾隆帝はこれを全面的に拒否した。

清朝の支配が長期に安定したことから、空前の経済的な繁栄がもたらされた。銀経済の発展にともない、康熙帝末にはじまった地丁銀の制度は、乾隆帝の時期に全国に普及した。これは人頭税の部分も土地税にくりこんで徴税する制度で、王朝が地主制の発達を容認したことを意味した。地方の有力者は、科挙をとおして社会的地位をきずき、官界での蓄財により、大規模に土地を集積して、大きな父系の血縁集団である宗族を形成した。彼らは商業にも進出し、官僚、地主、商業資本の結び付きが深まった。

明代にひきつづいて景徳鎮などの陶磁器、南中国の茶、江南の絹織物など特産品の生産が増大した。これらは海外にも輸出されて、いっそう銀が中国に流入した。清の時期に、中国の人口は急増し、18世紀の半ばに約2億人、同世紀の末に約3億人、19世紀には約4億人となった。しかし、この間、中国本土の耕地はほとんどふえておらず、農民の生活はしだいに圧迫され、多くの人々が、生活の場を東北、西北、西南の辺境や、東南アジアなど海外にもとめて移住するようになった。また、小作人たちは地主に対して、しばしば抗租という小作料の不払い運動をおこし、また自作農たちの納税に抵抗する、いわゆる抗糧運動も頻発した。

乾隆帝が引退した18世紀の末には、官界の腐敗もひどくなって社会不安も高まり、白蓮教徒の乱とよばれる大農民反乱がおきた。清朝は正規軍の力ではこの反乱を鎮圧することができず、軍事力の弱さがあらわとなった。

20 外国の圧力―アヘン戦争と不平等条約  同じころ、外から新しい力がおよんできた。当時、イギリスでは紅茶をのむ習慣が広まって、中国からの茶の輸入がふえ、また、産業革命の進展とともに、機械製の綿製品の市場としても、中国への関心が高まった。しかし、清朝は当時、外国貿易を広州1港に制限し、しかも公行にのみ貿易をゆるしていたため、イギリスはその制限の撤廃を強くのぞむようになった。

イギリスは、茶や陶磁器の輸入で生じた貿易赤字をうめあわせるため、インドで生産された麻薬のアヘンを密貿易によって中国にもちこむようになり、その結果、逆に中国からアヘン代金として銀が海外に流出する事態となった。清朝はアヘン取り引きを禁止したが、腐敗した役人や公行のもとで、密貿易は19世紀にはいって、急速に拡大した。

事態を憂慮した道光帝は、林則徐を広州に派遣して、アヘンの没収と、イギリス商人の貿易禁止など、きびしい対策を実施させた。これに対してイギリスは、外交・貿易問題を一挙に解決しようとして、1840年に艦隊を派遣して清朝にアヘン戦争をしかけた。イギリスの近代的な軍事力の前に、清軍はなすすべなく敗北し、42年に南京条約がむすばれた。

この条約で、清は広州のほかに上海、アモイ(厦門)などを開港し、香港島を割譲した。さらにイギリスは、清の関税率を協定できめることや、イギリス人が清の法律でさばかれない特権(治外法権)などをみとめさせた。これらは一方的に清におしつけられたもので、ここからいわゆる不平等条約の体制がはじまった。そして、アメリカ、フランスなど他の欧米諸国もまもなく同様の特権をえた。

南京条約による「開国」は、中国の経済に大きな影響をあたえた。長江下流にあって茶や陶磁器、織物の生産地に近い上海は、急速に対外貿易の一大拠点となり、租界とよばれた外国商人の居留地が、清朝の行政のおよばない地域として拡大・発展した。アヘンの密輸はひきつづき増大し、綿織物などの機械生産の外国商品が流入しはじめた。

しかし、清朝は南京条約について、外国に特別な恩恵をあたえたものと考え、従来の朝貢体制をなお維持していた。これに対してイギリス、フランスは1856年に適当な口実によって、アロー戦争(第2次アヘン戦争)をしかけ、58年に天津条約、ついで60年には北京条約をむすんだ。これにより貿易の制限がさらにゆるめられただけでなく、キリスト教の布教が公認された。清朝はこの段階ではじめて、朝貢関係とはことなる外交関係が存在することをみとめ、外国の公使が首都の北京に駐在するのをゆるし、さらに総理各国事務衙門(がもん)という役所をもうけて、外交事務にあたらせることにした。

21 太平天国運動  アヘン戦争ののちも、アヘンの輸入はいっそう増加し、巨額の賠償金の支払いもあって、清朝の財政は破綻(はたん)した。農村には、増税や銀価の騰貴によって、多くの失業者や流民が生まれた。とくに、開港により貿易の中心が上海などに移動したことから、華南の社会や経済に深刻な影響がおよび、不安が高まった。

こうした中で、プロテスタントのキリスト教布教に影響をうけた洪秀全は、上帝(エホバ)を信仰する新しい宗教をとなえ、広西を中心に信徒をふやした。官憲がこれを弾圧すると、洪秀全らは理想国家の建設をめざして蜂起し、清軍を撃退しながら「太平天国」を建国した。天王と称した洪秀全のひきいる太平軍は、「滅満興漢」をとなえて北上し、1853年には長江流域を占領し、南京を「天京」と改称して首都とした。

イギリスやフランスが再度清に圧力をくわえてアロー戦争がおきていたころ、太平天国の内部では指導者の間に争いが生じ、土地の均分などの政策も実施できず、しだいにゆきづまっていった。太平天国の拡大をおそれた各地の有力者や地方官僚らは、湖南で曽国藩が編成した「湘軍」のような独自の自衛軍をつくって太平天国軍に対抗したが、アロー戦争の終結によって有利な条約を手にいれたイギリスなどの列強も、太平天国鎮圧に協力するようになった。李鴻章は、故郷の安徽で編成した淮軍をひきいて、イギリス人ゴードンの指揮する外国人と中国人の混成部隊、常勝軍とともに江蘇と浙江を太平軍からうばいかえした。ついで、1864年、天京が陥落して、太平天国運動は敗北した。

太平天国の滅亡後は、太平軍とたたかって力を発揮した曽国藩や李鴻章ら、漢人の地方官僚の発言力がました。彼らは任地の近代化をはかり、軍備の増強と産業の育成につとめた。この時期の近代化は洋務運動とよばれ、なお清朝の体制維持を前提としていたが、上海や天津などを窓口として、欧米の文化や技術が中国に流入しはじめた。直隷総督兼北洋大臣として長く天津にあった李鴻章は、日清戦争の時期まで、西太后と協力しながら清朝の財政や外交の実権をにぎりつづけた。

22 列強の進出  この時期に、欧米列強は清朝の周辺地域の植民地化をすすめた。清朝に朝貢していたベトナムはフランスの、ビルマはイギリスの植民地と化した。ロシアは中央アジアや東北部の沿海州で清朝の領土をうばい、東方では、明治維新後の日本が、清朝と朝鮮をめぐって対立するようになった。

1871年の日清修好条規によって清との国交をむすんだ日本は、まもなく朝鮮に不平等条約をおしつけて開国させ、さらに琉球王国を沖縄県として併合した。清朝は、こうした動きに対抗して海軍の増強につとめ、朝鮮との宗属関係を強めたが、94年、朝鮮で新興宗教、東学を奉ずる農民たちが、反侵略・反封建の反乱(甲午農民戦争)をおこすと、日清両国が朝鮮に軍隊をおくりこみ、日清戦争がはじまった。

戦争は日本の勝利におわり、下関条約がむすばれて、清は遼東半島や台湾を日本にゆずりわたし(その後三国干渉により遼東半島は返還)、巨額の賠償金をしはらい、開港場での日本企業の経営をみとめた。清の宗属関係から切りはなされて「独立」が確認された朝鮮をめぐっては、その後日本とロシアの対立が強まった。

日清戦争後の中国では、列強の利権争奪がくり広げられた。清朝は欧米各国や日本と条約や協定をむすばされ、租借地や鉄道建設の利権をあたえたり、勢力範囲をさだめたりした。中国は一国の植民地となることはなかったものの、列強によって事実上分割された。おくれて進出したアメリカも、1899年、中国における通商の機会均等などをもとめる門戸開放宣言をだし、中国への割り込みをはかった。

23 変法運動と義和団事件  
こうした「亡国の危機」の中で、政治制度の大幅な改革をおこなって富国強兵をめざそうとする変法運動がおきた。1898年には光緒帝が康有為らを登用し、日本の明治維新をモデルとして急進的な改革をすすめた。しかし、保守派の官僚たちの反発を背景に、西太后は戊戌の政変とよばれるクーデタを強行して、光緒帝の政権をうばい、改革を3カ月で失敗させた。

19世紀の後半には、列強の経済的な進出に並行して、キリスト教の布教活動が盛んとなり、外国人宣教師たちが教育や医療など、さまざまな分野で中国社会にはいりこんだ。それにつれてキリスト教信者と一般の農民との間に摩擦がおき、キリスト教に対する反感が高まった。日清戦争後、とくにドイツの強引な進出がめだった山東省では、民衆の排外感情が強くなって、伝統的な民間信仰に根をもつ義和団の勢力が拡大した。

義和団は、キリスト教排斥と「扶清滅洋(清をたすけ西洋をほろぼす)」をとなえて蜂起し、1900年には北京にはいって、列強の公使館があつまっていた区域を包囲した。はじめ清朝は義和団を弾圧していたが、西太后は急速に成長した義和団運動におされて、列強に宣戦した。列強8カ国は、連合軍をつくって出兵し、激戦の末北京を占領した。翌年、北京議定書が調印され、清朝は各国が北京に軍隊を駐屯させる権利をみとめ、巨額な賠償金の支払いを約束した。この事件ののち、中国国内には満州族王朝の打倒をめざす革命運動が盛んとなっていった。

議定書調印以後も、中国東北部に軍隊の駐留をつづけていたロシアに対して、朝鮮に勢力を拡大しようとしていた日本は強い危機感をもった。またイギリスも、ロシアの南下をおさえようとし、両国は1902年に日英同盟をむすんだ。このような国際的な対立の中で、04年に日露戦争が勃発(ぼっぱつ)した。おもな戦場は中国の東北部と黄海、日本海だったが、戦争にゆきづまった両国は、アメリカ大統領ルーズベルトの仲介によって、ポーツマス条約をむすんで講和し、日本は大韓帝国(18971910年に李朝が採用した国号)の保護権、遼東半島南部の租借権、東清鉄道の南満州支線の利権、南樺太などをえた。

義和団事件後、清朝は、有力な地方官僚を中心に、政治体制の改革にとりくんだ。科挙が廃止され、1908年には憲法大綱が発表されるなど、立憲帝政への移行が徐々にすすんだ。こうしてようやく中国の近代化は本格化したが、地方の有力者や商人、資本家の間には、しだいに反満州族の機運が高まり、各地の革命運動も活発化した。1905年には、孫文を中心にして、東京で中国同盟会という革命結社の大同団結組織がつくられた。孫文は同盟会の目標として、「民族、民権、民生」の三民主義の実現、すなわち漢民族の独立、共和政の確立、民生の安定を主張した。

24 中華民国の樹立  中央政府の強化をめざしていた清は、1911年、財政の補強策として外国から資金をかりるための担保に、民間鉄道の国有化をすすめようとした。これに対して各地ではげしい反対運動がおき、四川省では暴動となった。10月、革命派の影響が強かった武昌駐屯の軍隊が蜂起して革命の火ぶたを切ると、たちまち多くの省が清朝からの独立を宣言した。革命派は、年末に帰国した孫文を臨時大総統にえらび、翌121月、南京で中華民国の成立を宣言した。これを辛亥革命という。

清は、軍事力をにぎる袁世凱に全権をあたえて革命派に対抗させ、危機を切りぬけようとしたが、袁は革命政府とむすんで、宣統帝(溥儀)を退位させることを条件に、孫文から臨時大総統の地位をゆずりうけた。こうして清朝はほろび、中国の王朝体制は終わりをつげた。しかし袁世凱は、議院内閣制を確立しようとする革命派の動きを武力で弾圧して独裁体制の強化をはかり、さらにみずから即位して帝政復活をくわだてた。これは内外の反対にあって挫折し、袁世凱は1916年に世をさったが、その後も、列強の支援をうけた軍閥が各地に割拠して対立抗争をくり広げ、民衆は絶え間ない戦乱にくるしんだ。

1次世界大戦の勃発によって、ヨーロッパ勢力は一時アジアから後退したが、中国では民族資本が成長し、軽工業を中心に近代的な産業が発展した。大戦中の1915年、日本の大隈重信内閣は、袁世凱政府に対して、二十一カ条要求をつきつけ、山東半島などでの権益の拡大をはかった。袁世凱は最終的に要求をうけいれたが、これは中国の民族意識を強く刺激した。

辛亥革命の挫折と民族の危機に直面して、新たな啓蒙運動がおこった。ヨーロッパ近代の市民社会を理想化した陳独秀らは、雑誌「新青年」を創刊し、民主主義と科学主義にもとづいた新しい思想をうったえた。胡適は、伝統的な文語体ではなく口語体(白話)をもちいることを提唱し(白話文運動)、魯迅はその白話によって「狂人日記」「阿Q正伝」( Q)などの作品を書いて、保守的な文化や社会を痛烈に告発した。この文化・思想の革新運動を文学革命とよぶ。

中国は、1919年のパリ講和会議で二十一カ条要求の撤回を強く要求したが、会議はこれを却下した。それを知った北京大学の学生らは、54日、抗議運動をおこした。運動は日本製品の不買運動を展開するなど、中国各地に拡大し、中国の民族主義は新しい段階をむかえた。この五・四運動におされて、北京政府はベルサイユ条約の調印を拒否した。

外モンゴルでは、中国からの独立をめざす運動がすすめられていたが、ロシア革命の影響をうけて人民革命政府がつくられ、1924年にソ連の援助をえてモンゴル人民共和国( モンゴルの「歴史」)が成立した。

25 国民党と共産党  五・四運動の高まる中で孫文は、中国国民党を組織し、1921年、広州に革命政府(広東政府)をたてた。また、陳独秀らは、ロシア革命の影響をうけ、コミンテルン( インターナショナル)の指導のもとに中国共産党を結成した。孫文もソ連との接触を深め、24年に国民党は共産党員の入党をみとめて、第1次国共合作を成立させた。

この間に、第1次世界大戦で一時後退していた欧米列強の中国への関心はふたたび強まり、19255月には、上海の日系工場の争議にイギリス警察隊が介入して労働者のデモを鎮圧し、多くの死傷者をだす五・三〇事件がおきた。この事件の影響は全国に広がり、列強と、それとむすぶ軍閥政府への大規模な反対運動に発展した。

孫文の死後、広東政府は国民政府とあらためられ、その軍事権をにぎった蒋介石のもとで、北方の軍閥をたおして全国を再統一するための北伐を1926年に開始した。北伐軍の北上にともなって、農民や労働者の運動も盛んになり、共産党が勢力をのばした。これに脅威を感じた蒋介石は、274月、共産党への大弾圧(上海クーデタ)を強行し、国共両党の合作は崩壊した。北伐は継続され、途中で日本軍と衝突しながらも、28年には東北軍閥の首領張作霖を北京から追放した。張作霖は奉天への移動中に日本軍に爆殺されたが、息子の張学良が蒋介石を支持し、ここに中国はほぼ統一され、蒋介石は南京に国民政府をおいて主席となった。

26 ソビエト革命の進展  南京国民政府は、蒋介石のもとで地方軍の整理、通貨の統一と安定、社会の近代化などにのりだした。アメリカやイギリスの援助をうけて、貨幣制度の改革や、道路など交通幹線の整備がすすめられたが、政権の安定は容易にえられなかった。蒋介石はしだいに国民党内の反対派やその他の批判勢力を抑圧し、独裁を強めた。しかし、国内では共産党の革命運動が息をふきかえし、外からは日本の中国侵略が深刻化した。

国共の分裂後、共産党は農村にソビエト区をもうけ、地主の土地を没収して貧農に分配する土地改革を実施して革命の拠点とした。そして1931年に、江西省の瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府(主席は毛沢東)がつくられた。一方、第1次世界大戦中に好況をつづけた日本は、戦後の不況にくるしみ、危機を切りぬけるため中国東北部(満州)を確保しようとした。

日本軍は、1931年に、奉天郊外の柳条湖でみずからがしかけた南満州鉄道爆破事件を張学良軍の仕業として東北全域を占領し(満州事変)、翌32年に「満州国」をたてた。「満州国」は清朝最後の皇帝溥儀を皇帝としたが、日本の傀儡(かいらい)国家であった。そして翌33年、国際連盟が、リットン調査団の報告をもとに「満州国」の不承認を決議すると、日本は連盟から脱退した。

東北を侵略した日本軍は、ついで華北および内モンゴルに侵攻をくわだてた。しかし、蒋介石のひきいる国民政府は、国内の統一と安定を優先する「安内攘外」政策をとって、日本への抵抗をひかえ、瑞金の共産党根拠地に対する大規模な攻撃をつづけた。ささえきれなくなった共産党軍は、193410月に瑞金を放棄して長征を開始し、3610月に陝西省の延安に新たな根拠地をきずいた。その間の358月には、モスクワにいた中国共産党幹部が内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成をよびかけた(八・一宣言)。

27 日中全面戦争  抗日の世論が高まる中で、蒋介石は193612月に、延安の共産党勢力を包囲していた国民党軍に戦いを督促するため、西安におもむいた。東北の地盤をうしなって、抗日にかたむいていた国民党軍の張学良らは、蒋介石を監禁し、内戦の停止を強くもとめ、蒋介石も共産党との提携にふみ切った(西安事件)。そして、翌377月に、北京郊外で発生した盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまると、ふたたび国共合作が成立した(第2次国共合作)。

宣戦布告のないまま日本軍は全面的な侵略戦争を開始し、華北・華中の主要都市についで首都南京を占領したが、この南京占領の際に、捕虜や市民に対する大虐殺や暴行がおこなわれ(南京大虐殺)、日本は国際的な非難をあびることになった。国民政府は首都を武漢、ついで重慶にうつして抗戦をつづけ、共産党系の八路軍は農村地帯を中心にゲリラ戦を展開して、解放区を拡大した。また、アメリカ、イギリス、ソ連など各国が国民政府を支援し、日本の侵略戦争はしだいにゆきづまっていった。

28 抗日戦争の勝利と国共内戦  
日本との戦争の間に中国の国際的な地位は上昇した。不平等条約は撤廃され、戦後に国際連合ができると、中国は常任理事国の一国となった。しかし、国内では戦争の間に共産党の支配する地域が拡大し、国共両党の対立が深まっていた。

戦後まもなく蒋介石と毛沢東は重慶で政権の問題について話し合い、1946年初めには政治協商会議が開かれた。しかし停戦の約束はまもられず、ふたたび内戦がはじまった。共産党の支配していた地域では戦争中から土地改革がすすめられ、共産党は農民の支持をあつめることに成功していた。これに対して国民政府の支配していた地域では、インフレが高じ、また政治の腐敗が深刻化して、軍隊さえ政府からはなれる動きがあらわれた。

再開された内戦では、アメリカに支援されて装備にまさる政府軍がはじめは有利だったが、1947年後半から形勢が逆転した。共産党の人民解放軍は北から南へと圧倒的な勝利をえ、49年初めには北京を占領した。そして101日、毛沢東が北京の天安門で中華人民共和国の成立を宣言、蒋介石の国民政府は、台湾にうつって、以後「大陸反攻」をとなえつづけた。

29 中華人民共和国  2次世界大戦後、ソ連とアメリカを中心とする東西両陣営の対立がはげしくなる中で、中国に社会主義政権が誕生したことは、西側諸国に大きな衝撃をあたえた。建国の直後、毛沢東はソ連におもむき、19502月に、中ソ友好同盟相互援助条約をむすんだ。さらにこの年6月に勃発した朝鮮戦争により、東側の一員としての中国の位置は決定的なものとなった。

北の朝鮮人民軍の攻勢がつづく中、アメリカは台湾海峡に艦隊を派遣して蒋介石政権を西側の要員として確保するとともに、ソ連が欠席した国連決議にもとづいてアメリカ軍を中心とする国連軍を朝鮮半島に上陸させ、朝鮮人民軍を中国国境付近までおいつめた。これに対して中国が人民義勇軍を派遣すると戦局はふたたび逆転した。

戦争は、1951年以降は北緯38度付近で膠着(こうちゃく)し、537月に休戦となったが、以後アメリカは中国の封じ込めをはかり、日本との519月のサンフランシスコ講和会議でも、中国政府の参加要求を拒否した。日本は、翌年台湾の国民政府との間に日華平和条約をむすび、日中戦争が終結したことにしたが、中華人民共和国はこれをみとめず、72年に日中共同声明がだされるまで、国交は回復されなかった。

30 社会主義建設  建国以後のきびしい国際情勢のもとで、中国は、「ソ連一辺倒」の社会主義建設をすすめた。ソ連の援助によって工業化をはかるとともに、農村では土地改革を完成させ、さらに農業の集団化に着手した。商工業の社会主義化もすすめられ、ほとんどすべての企業・商店・工場が社会主義的集団所有ないし国有に転化された。また、行政経費の節減、経済・社会・文化の各方面でのさまざまな改革もすすめられた。これにより革命後の混乱は急速に収拾され、1953年に第1次五カ年計画がはじまり、54年には新しい憲法が制定された。

しかし、ソ連との協力関係は長くはつづかなかった。19562月、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判がおこなわれ、その波紋が世界に広がる中で、中国でも百花斉放・百家争鳴とよばれる、共産党に対する批判的な言論が一時ゆるされた。しかし、共産党への批判が深化すると、翌年、毛沢東は一転して「右派」分子を摘発するきびしい政治運動を発動し、これによって多くの知識人や専門家が能力を発揮する場をうしなった。毛沢東は、冷戦の緩和をめざすソ連とはことなる、独自の社会主義建設をすすめはじめたのである。

31 大躍進  毛沢東は、農業の集団化を徹底してすすめるとともに、鉄鋼の増産を中心にした工業生産の飛躍的な発展によって、短期間に西側先進国の経済水準においつけると考えて、1958年に、農村での人民公社の建設と全国の「大躍進」政策の推進をとなえた。「大躍進」は一面では国民の労働意欲をひきだすことに成功したが、しかし現実には無用で粗悪な鉄を大量にのこしただけにおわった。

人民公社の急進的な運営によって、全国の農業生産は破壊され、深刻な食糧難が発生して多数の餓死者がでた。毛沢東は、このような事態の中で、国家主席を辞任して劉少奇にゆずったが、この間ソ連との関係はますます悪化し、ソ連からの経済・技術援助がとだえ、中国の経済困難はいっそう大きなものとなった。

毛沢東は、1959年の廬山会議で、「大躍進」政策を批判した彭徳懐国防部長らを失脚させ、党内におけるみずからの権威をたもったが、経済政策の変更はさけられず、かわって国家主席となった劉少奇やケ小平らの手で、集団化の方向を緩和し、農村に自留地や自由市場をみとめて、農民の生産意欲をひきだそうとする、いわゆる「調整」政策がすすめられた。しかし、こうした経済困難の中でも、核兵器の自力開発は継続され、64年、最初の原爆実験に成功した。

32 文化大革命  
こうして1960年代前半に経済は回復にむかったが、毛沢東は、個人の収入という経済的刺激で事態を改善するのは資本主義の復活につながるとし、人民に革命思想を徹底させることで、まったく新しい理想的な社会がもたらされると考えた。63年から、農村で社会主義教育運動がすすめられ、その後、66年には、毛沢東によって「プロレタリア文化大革命」が発動された。


これは、ソ連との対立の激化や、ベトナム戦争の拡大などの緊張した国際情勢の中で、革命的な意識と階級闘争を強調し、それによって内外の困難を克服しようとする試みであった。毛沢東の呼びかけにこたえて、わかい学生や生徒からなる「紅衛兵」たちが、全国で党や政府の既存の組織、権威を破壊し、国内は無政府状態となった。

文化大革命には、一面では建国後17年の間に生じたさまざまな問題を抜本的に解決しようというねらいがあったが、他方では「大躍進」の失敗後傷ついていた毛沢東が、みずからの威信の回復をかけて敢行した大闘争という面もあった。独裁的政権をにぎる共産党の最高指導者が「革命」を指導するという点でも、異常な事態であった。熱狂的な毛沢東崇拝の気運の中で、国家主席だった劉少奇をはじめ、あらゆる分野でおびただしい人々が「資本主義の道」をあゆむ「実権派」として糾弾され、はげしい批判をうけて命をうしなった者も多かった。

この間にソ連との対立はいっそう深刻になり、1969年には、局地的な武力衝突にまで発展した。他方、それとは対照的に、アメリカや日本など西側諸国との関係の改善が劇的に進展した。71年の国連総会で、台湾(中華民国)が排除されて中国の代表権が回復され、翌72年にはアメリカ大統領ニクソンが中国をおとずれた。日本からは田中首相、大平外相が北京にでむき、「日中共同声明」により国交を回復した。それと同時に、日本と台湾との国交は、「一つの中国」という原則のもとに、ただちに断絶された。

33 毛沢東の晩年  1970年代にはいって、文化大革命の混乱は人民解放軍の力によりある程度収拾されたが、しかしすでに高齢の毛沢東の後継者問題をめぐって、さらに分裂と対立が発生した。71年には、文化大革命で毛沢東に協力した林彪国防部長が、反毛沢東クーデタを準備したとして排除される林彪事件がおきた。なお文革の継続がさけばれてはいたが、周恩来首相は「四つの現代化」(農業、工業、国防、科学技術)を提唱し、文化大革命の時期に批判をうけた人々が徐々に職務に復帰する動きがみられはじめた。これに対して、毛沢東夫人の江青をはじめとする文革で台頭した勢力がするどく対立した。

19761月、建国以来毛沢東の一貫した協力者であり、文革期には穏健派の中心だった周恩来が死亡し、その死をいたむ人々が45日の清明節に天安門広場にあつまった。政府はこれを反革命暴動として弾圧し(第1次天安門事件)、ケ小平は事件の黒幕とみなされてふたたび失脚した。死を目前にした毛沢東が華国鋒を後継にえらび、9月に死亡すると、華国鋒は、江青ら文革派の主要メンバーを、反革命をくわだてる「四人組」として逮捕した。

34 ケ小平時代  
華国鋒政権は、1977年に文化大革命の終結を宣言し、「四つの現代化」をスローガンに、経済建設と生産力の発展を重視する路線へと転換した。ケ小平は再度復活して、副首相に就任した。対外的には経済建設への援助を期待して西側への接近がはかられ、78年に日中平和友好条約がむすばれ、翌年にはアメリカとの国交も正式に開かれた。しかし、対ソ関係はなおきびしく、統一後のベトナムがソ連の支持のもとにカンボジアへの影響力を拡大すると、79年に軍隊を派遣して中越戦争をおこした。しかし、この戦争で中国軍は深刻な打撃をうけ、国防の近代化が課題として浮上することとなった。

再度登場したケ小平は、党や政府の最高ポストにはつかないまま、華国鋒にかわって政治の実権をにぎり、大胆な方向転換をはかった。1980年に孤立した華国鋒にかえて腹心の趙紫陽を首相のポストにすえ、「四人組」裁判のキャンペーンをへて、81年にはもうひとりの腹心である胡耀邦を党の主席に就任させた。翌年に主席制度が廃止されると、胡耀邦は党総書記に就任した。

ケ小平は「改革と開放」をスローガンとし、社会主義的な経済運営を大幅に緩和する政策をとった。農村では、それまで中国社会主義の象徴だった人民公社の解体がすすみ、生産請負制とよばれる個々の農家の自作農的な農業経営が普及した。また、計画経済から市場調節をとりいれた経済への転換がはかられ、外国の資本や技術の積極的な導入がすすめられた。こうした転換によって、農業生産が増大するとともに、さまざまな企業活動が活発になり、急速な経済成長がはじまった。

中ソ関係は、1980年のモスクワ・オリンピックを中国がボイコットするなど緊張がつづいていたが、しだいに緩和にむかい、89年、ソ連共産党書記長ゴルバチョフが民主化運動のさなかの北京を訪問して国交の正常化が実現した。朝鮮戦争以来その存在をみとめなかった大韓民国とも、93年に国交を開いた。

経済政策の面では積極的な開放政策がとられたが、政治の面では共産党の指導的地位という原則が堅持され、政治の民主化をもとめる運動はたびたび弾圧された。1986年に民主化運動がもりあがると、胡耀邦はその要求にある程度の理解をしめした。しかし、共産党の権威に危機感をいだいたケ小平は、まもなく胡耀邦を辞任させ、かわって趙紫陽を総書記とした。894月、胡耀邦の死をきっかけにふたたび民主化をもとめる学生や市民の運動がおき、北京の天安門広場から全国の各都市に波及すると、64日、政府は人民解放軍の武力をもちいて弾圧し(第2次天安門事件)、趙紫陽が失脚して江沢民が総書記となった。

天安門事件は世界をおどろかせ、非難が集中したが、江沢民体制のもとでも経済成長はおとろえず、シェンチェン(深Q)をはじめとする沿海地域の経済特区や経済開発区を中心に、いくつかの地域経済圏が形成された。とくに香港や深Qに隣接する広東省広州市を中心とするいわゆる華南経済圏の急成長や、上海地域の再開発には国際的な関心があつまり、国際経済に占める中国の重要性は飛躍的に高まった。

1980年代末に進展した国際情勢の変化により、中国の国際政治の面での位置にも大きな変動がもたらされた。ソ連や東欧の社会主義政権は崩壊し、「社会主義大国」としてのこるのは中国だけとなった。しかし、社会主義のイデオロギーは国際問題の焦点ではなくなっており、人権問題などで中国を牽制(けんせい)するアメリカ合衆国に対して、経済力を背景に中国が独自性を主張するという構図がめだってきた。国内では、経済の発展とともに国民の社会主義への信念が弱まり、富裕な社会層が増大するとともに、貧富の差が急速に拡大し、さらに、それにつれて官僚の腐敗、汚職や、経済犯罪の増加がめだち、インフレによる物価の上昇とあいまって、さまざまな社会問題が発生している。

このような中国の変化は、「改革と開放」を提唱して方向転換を指導してきたケ小平が19972月に死亡したあとも、江沢民体制のもとでひきつづいて進行しており、今後は徐々に共産党の指導体制にも変化が生じていくことが予想される。

35 今後の中国と東アジア  
香港や台湾は、韓国やシンガポールとともに経済成長に成功し、アジアNIES(新興工業経済地域)とよばれる。これにくわえて中国の沿海地域の経済発展もめざましく、最近では、21世紀には中国を中心とした東アジアと東南アジア地域が世界経済の主要な担い手になるという予測もでている。

香港は199771日にイギリスから返還されたが、民主的な政治制度の確立をもとめる声は返還後も大きく、独自の社会組織と経済的な繁栄を持続できるかどうか、香港の自治政府と北京政府との関係がどのように調整されるかなど、国際的な注目をあつめている。

台湾は1980年代に高度成長を達成し、政治的にも国民党一党独裁から民主化の方向にすすみ、中国大陸との関係も大きく変化した。96年には総統の直接選挙がおこなわれて民主的な政治体制を完成させたが、「一つの中国」を大前提とする中国は、総統選挙の時期に台湾近海で大規模な軍事演習を展開し、国際的な非難をまねいた。しかし、こうした緊張をよそに、航空路や船舶ルートが開設されるなど通商拡大が具体的に進展しており、両者の関係改善がはかられつつある。

一方、国内では新疆ウイグル自治区で民族主義的な主張がみられ、チベット自治区でも民族紛争や反政府暴動が発生している。返還後の香港の情勢や、台湾との関係とともに、ケ小平以後の中国の国内秩序の動向が、今後の東アジア地域の情勢にあたえる影響は大きい。