4−1  ピカソ美術館

入場を待つメンバー(20分くらい待ったか。一定人数で制限しているようだ)

中世の雰囲気を最も濃く留める貴族の館が建ち並ぶモンカダ通りの一角にある。美術館自体もゴシック様式の貴族の屋敷を改装したもので、3つの建物で構成されている。ピカソの初期と晩年の作品を主に展示している(わがまま歩きスペイン−実業之日本社から)。

館内は撮影禁止だったので、館内売店で求めたガイドブックから、印象に残ったのを再掲した(説明も、同書からの引用)。

画家の母の肖像 1896年 パステル画 49.8*39cm

母親マリア・ピカソ・ロペス(1855-1938)に捧げられた肖像画である。この絵は、ピカソが既存の芸術的価値を考え直し、独自の手法を見つけだす以前に描きあげられている。デッサンの技術は油絵のものより軽やかで質感がある、こういった技術が母親の人物像により強烈で奥行きのある芸術的感覚を与えている。メルセー通りの新住居で、前方に軽く頭を下げ、目を閉じ、半分眠ったように休息しているマリア夫人の横顔のその瞬間が的確に捕らまえられている。デッサン技術の素晴らしい駆使と結びついて、女の横顔の陰影と、軽やかな白線によって浮き出された白いブラウスの布の織り地に醸し出された温和な雰囲気は少年の絵画形成期で画期的な作品の肖像画になっている。

 

初めての聖体拝領 1896年 画布上油絵 118*166p

父親の指導(美術学校教師)の下ではじめて「聖体拝領」が描かれたが、これは通常の作品よりずっと野心的なものであり、バルセロナ美術・工業芸術展に出品され、画家としての第一歩を踏み出す礎の作品となった。コンクールに出品したことで初めて新聞批評を受けた。

それには「初心者の作品であるから、主要人物の感情表現に注意すべきであること。しかし、しっかりした構図である」とあった。

科学と慈悲 1897年 画布上油絵 197*249.5p

これはマドリッドの国立美術展に出品する目的で描かれた。この油絵は写実主義的流れに位置する作品である。題は当時19世紀末に大変流行していた二つの異なった立場を反映すものである。慈愛の感情と科学的な新医療法に対する興味、この両者が画上で病という主役で表現されている。

人物とスペースはきっちりした古典的法則の中に収まり、色彩は授業で教えられた型を踏襲しているが、画上の一部分のむらさきがかったトーンとオークル系のトーンは当時バルセロナで起こりつつあった芸術新風のある種の定着がうかがえる、と同時に彼の作風が完成間近かと思わせる。マドリッドのコンクールは、この作品の素晴らしさを考慮し、マラガの県美術展に出品し、ここで金賞を受賞している。

小人女 1901年 ボール紙上油絵 102*60p

絵は効果的な様々な色調を駆使し、激しいエネルギーに満ちたオリジナルな作品として仕上がっている。ピカソはラフェンテ・フェラリーがマクロデヴィジオニズムと名つけた、所々がモザイク調になっている、軽く自由なタッチでこの絵を描いている。油絵は描写的ではない。この時代の多くの作品に見られる多色彩が前面に押し出されている画法は、その後の作品に見られるような減色彩に徐々に変わっていく。

道化役者 1917年 画布上油絵 116*90p 

道化役者のモデルは当時有名なレオニデ・ナッシーン(1896-1979)である。このモスクワ出身の若者は団長デイアジレフが1913年−1914年の冬にニジンスキーの代わりに契約し、その後ロシアバレー団の第一舞踊家となった。1917年以降は、振り付けの仕事とダンサーを両立させている。

ピカソは舞台を背景にし、深い赤のカーテンによってほんの少し隠されている手すりを土色のオークル系肌の色にし、人物の菱形模様の定番衣装に使われている青、緑、バラ色と対比させている。「道化役者」は1905年、道化やサーカスの世界が脅迫観念的に作者の作品に進入してきた時代の中でも素晴らしい出来映えの人物画である。

肌の黄土色と大きい    肉付きのよい手はピカソが形態上の量感に興味を持っている事を示し、1920年から1923年の間、頂点に達していた古代やギリシャ・ローマからの芸術的滋養を伺わせる。この素晴らしい傑作を描いた2年後、ピカソはバルセロナ美術館にこれを寄贈している。  

絵を描く画家 1965年 画布上油絵 100*81p

1963年から1965年の間、画家(ピカソ)は描くという猛烈な欲求で気が違うかのようであった。1963年のデッサン用アルバムの裏表紙にピカソは、「絵は僕よりずっと強力だ。絵は僕を好きなように引き回す。作品は次から次へとひとりでに湧き出てくる、そして独自に美術作品を作り上げる。僕らは共同の署名者となったようだ。」ここに画家とモデル及びその他の変数というテーマが再度浮上してくる。

二人の人物像、一人のモデル、創作場所−アトリエ−…がしかし、この油絵は画家一人で絵に立ち向かっている作品である。モデルは存在しないで。画家一人キャンヴァスに向かって自身の絵を描いている。髭を生やした画家を見てみよう。落ち着かない、見通すような視線。右目は、晩年のピカソの作品にしつこく繰り返されるグラフィックで表現されたフォーク型になっている。

画家とモデルのテーマは画家の若いときの作品に既に現れ、全生涯を通じ現れたり隠れたりしている。彼独自の作品との関係では、絵画上の副次的題材と考えられていた。しかし晩年の20年(1953年−1973年)で、画家が創作活動の頂点に達したとき、作品はモデル、主題、その実践例を一つに纏めた実体に変わっている。

「絵を描く画家」では1964年以降、晩年のスタイルの定型ともいえるある種の表現が感じ取れる。この時代は、自由と完全な解放の下に新たな絵画表現、それは速記スタイルであり、絵画の表面に特殊仕上げを行うことであり、時に応じて重ね塗りまたは薄く伸ばした筆遣いであり、確固たるタッチの線…等を試みている。結論、時として無限に継続していく素朴で、荒っぽいスタイルである。

晩年、画家は無邪気でフレッシュな子供時代に戻る。全てを習熟した後、それら全てを捨て去ると大いなる真実が与えられる。この絵ではっきりしているのは、バラ色、ブルーとグレー、青白さと温かさの色彩、これらに画家が光る白を混ぜてクリエートさせたピカソの白色で、現在の光溢れる作品を構成している。

腰掛けている男 1969年 画布上油絵 129*69p

最後の数年ピカソは当時あまり理解されなかった形式上、美学上の革命運動に驚かされていた。彼の理念の一つを攻撃したルネッサンスの遺産ともいうべき運動に振り回された後で、キュービズムの手品師の将来展望は、当時、新しい美学上のスペースを創造し、芸術の新分野の開拓に挑戦することであった。

晩年の作品の理念は、より広範な人間的感情を写し取るために、jまたは抽出するために、絵画的描写をインノベートするということであった。ピカソは今までに学んできたことや技術上の約束事から解放され、自然でのびのびした感情や、美術学校時代の少年期、つまり表現の上で、原始的でダイレクトで野性的な自然に帰ろうとした。要約すると、歯止めとか規則のない絵画、驚異的エネルギ−を表現する方法を最後の瞬間まで探求していた。

「腰掛けた男」はアビニョン時代と同意語である破壊の絵画の典型として知られている。この地アビニョン法王の宮殿で二回の大きな美術展(1970年と1973年)が開催された。ピカソは人獣シリーズを出品し、その中の一枚はこの油絵の主役である人間と粗暴な動物の半怪半獣像である。実際に用いられたソフトな色とは反対に、粗く太い黒色の線で原始的で気性の激しいこの人物像、半人間・半野獣が描かれている。

不明瞭な顔を創作するために、ピカソはフェティシェのお面をシンボルとして使用している。これは、独自性の探求という解釈上、アヴィニョンのタロットの面に行き着いたが、以前にも同じような意味で、黒の面や、オセアニアの面、またはロマネスク美術の面も彼のアートの一部に用いられたことがある。顔つきは動物であるが、髭と恐るべき口髭、顎髭はスペイン黄金時代の貴族や郷士のものを参考としている。

怪物への上昇移行は震えるような美を証明する彼の必要性を反映している。原始的で粗野な形態を介して、幻想的で脅迫観念的な美という普遍性を表現する欲求の明白な証である。彼は再度、無限に挑戦する。しつこく重ねたトーン、荒っぽい線、べたべたに油彩或いは水彩された部分、彼の晩年の特徴的なグラフィック、このグラフィックを用いて手のひらだけを扇のように広げた両手、これら全てで彼は絵画というものの実態を示そうとしている。

……………………………

この他に

美術館には、後年ピカソが焼いた陶芸作品が展示されていた。その多くは魚の絵が描かれた楽しいものだった。大家ピカソが描いたとも思われない無邪気な絵が、心和ませてくれた。子供は天才、それを見事に再現したような絵付けに思えた。お見せできないのが、残念(>_<)。

 

ホームへ       楽しきかな、旅の日々へ