1 楽しきかな、旅の日々
10月5日(水) 成田からロンドン経由でバルセロナへ到着
成田発13:10−ロンドン着17:15−発18:40−バルセロナ着22:00 バスでホテル(BARCELO SANTS)へ、22:50到着(時差は、−7時間)
←写真は、ブリティッシュ・エアウエイズで、Red wine please と言ったら、なんと2本(180ml)もくれた。美味しかった(~o~)
6日(金) 終日バスでバルセロナ市内観光 (グエル公園、サクラダ・ファミリア、ピカソ美術館、ミロ美術館)をした
グエル公園、サクラダ・ファミリア、ピカソ美術館、ミロ美術館
グエル公園にあるお菓子の家。1900年初頭、住宅地としてガウディが設計し開発(1万5千平方メートル)されたが、売れずにその後公園になった。高台になっているのでバルセロナ市街や地中海が望める。トカゲの噴水、破砕タイルを使ったベンチ や市場の天井、ガウディ邸など、見所が沢山ある。
サクラダ・ファミリア(聖家族教会)は、ガウディ未完の大作で、いまも建築が続いていて、完成は30年後になるといる。1882年に着手し翌年からガウディが引き継いだもの。12本の鐘塔のうち、ガウディが完成したのは1本だという。いまでは8本ほど完成している。 ガウディのごてごてした装飾に対し、いま進められているのは極単純な直線で構成されている。この対比も面白い。
ピカソ美術館は、貴族の館が建ち並ぶモンカダ通りにあり、館自体も貴族の屋敷を改装したもの。初期と晩年の作品を主に展示している。
ミロ美術館は、バルセロナの街が一望できるモンジュイックの丘の上にあり、ミロが私財を投じて造らせた美術館。内部は開放的で明るく、大きなタピスリーや、カラフルなオブジェや絵画が展示されていて飽きない。
10月7日(土) バルセロナから飛行機でマラガへ、そしてバスでジブラルタル(イギリス領)−カサーレス−ミハス(泊)
ホテルを朝6時に出て、8:00の飛行機でマラガ着9:30。団員のスーツケース1個が行方不明のトラブルがあり、結局見つからなかった。そして、迎えのバスが来ていないトラブル もあり、やっと12:00に乗車。ここから、出国するマドリッドの空港まで、大型の観光バスでの移動となる。
バルセロナ空港での朝焼け(7:48)、翼の先はピレネー山脈(フランスとの国境)か、マラガ空港へ無事到着(9:30)、そこで待ちぼうけ2時間半ほど、やっと乗車(12:00)
13:40にイベリア半島最南端にある、ジブラルタルへ到着。歩いて国境(写真−入国審査−パスポートを提示するだけでOK)を通るとイギリス 領土。マラガ到着時は曇っていたが、だんだん晴れてきた。2時間半の待ちぼうけが、いい結果になったような気がした。
英国領ジブラルタル(山はターリック山426m)へ、入国審査
17:45にジブラルタルを発ち(バス)、カサーレスの白い村を見て、ミハスのホテル(CLUB PUERTA DEL SOL)に着いたのが20:35分だった。
因みに、日没は20時頃なので、朝日が8:00,夕焼けが20:00ということで、日本では、朝が6時、夕焼けは5時頃とすると、シエスタのシステムも合理的と思える。でも、スペイン政府はこれを他国の基準に合わせるよう、今年公務員の勤務時間を変えたようだ。受け入れられるのだろうか?
白壁と赤い屋根が印象的なカサーレスの村
10月8日(日) 白い村ミハス観光−崖の上の街ロンダ観光−グラナダのホテル(CONDOR-ここに2泊)に19:00着
9:00にホテルを出発。10分ほどで白い家の建ち並ぶミハスへ着く。1時間ほど散策。展望台からは地中海と、泊まった市街が一望の下に広がる。
ロンダへ向かう途中峠越え。標高700m程の峠からは、ジブラルタル海峡越しに写真下左のように、イベリア半島(右端)と、ジブラルタルのターリック山(中)、アフリカのモロッコの山(左)が見渡せた。峠を降りると、右のように一面オリーブ畑が広がる。乾いた大地に一面のオリーブの木の風景は、トレドへ行くまで続いた。
11:40崖の上の街(左)、そして闘牛発祥の地ロンダへ着いた(右)。
ロンダのカフェで、オレンジジュースを飲む。写真の女の子が手元の赤い機械で生のオレンジを5−6個搾って入れてくれた。つまり100パーセント生ジュースだ。値段はたったの1ユーロ(150円)と安い。勿論、味はいうまでもなく美味しかった。
ロンダ見学の後、行方不明だったスーツケースを引き取りの為にマラガ空港経由で、宿泊地のグラナダへ向かった。
10月9日(月) アルハンブラ宮殿見学後、王室礼拝堂 とカテドラルを観た
アルハンブラ宮殿見学
ホテルを8時に出て、宮殿までは30分と近い。ここでのガイドは、片足不自由な(ガイド中に転んで怪我をしたらしい)フィリックスさんで、日本語で吉本ばりのギャグ−ネタを何から仕入れるのだろうか不思議−を飛ばし、みんなを笑わせながらの楽しいガイドだった。
アルハンブラ宮殿
宮殿、ライオンの中庭、アラヤネスの中庭、フィリックスさん
アルハンブラのパラドール(国営ホテルで、城や修道院などを改装してホテルにしていて、人気が高い−因みにここは、1泊6万円ほどだという−宮殿内の中程にある−)で昼食時に食べたポロネギ・海老のプリン仕立て(左−食べかけで失礼)とイカスミ・リゾット(右)で、美味しかった
王室礼拝堂見学
建物は、スペイン後期ゴシック様式の傑作。16世紀初頭イサベル、フェルナンド両王の希望で建設に着手、二人の孫に当たるカール5世によって完成された霊廟。中央の金色の鉄格子の中に大理石に豪華な彫刻を施した墓が2対、どっしりと鎮座する。一つは両王、もう片方は娘ファナ(夫への愛と嫉妬で狂ったとされる)と夫フェリペの墓だ。地下には4つの柩が並び、4人はそこで今も静かに眠っている。−わがまま歩き「スペイン」−から引用−
写真は禁止だった。唯一入場したところに架かっていた絵はokだった。誰の作か分からないが、イサベル女王(右の白馬上)がボアブディル王(グラナダ王国)からアルハンブラ宮殿の明け渡しを受けているところのようだ。
王室礼拝堂 と油絵
カテドラル見学
16から18世紀にかけて建設され、当初はゴシック様式、後にルネッサンス様式に移行。一つの建物の中にヨーロッパの代表的な二つの美術様式が見られる。−わがまま歩き「スペイン」−から引用
カテドラル
10月10日(火) ゴルドバでメスキータ見学後、 セビーリャのホテル(BECQUER-2泊)へ、夜フラメンコ・ショー鑑賞
グラナダのホテルを8:30に出発。1枚目は、ホテル隣公園の朝焼け(8:32頃か)、途中で見た城と街並み、休んだドライブイン近くに生っていたオリーブ、そこで買ったオリーブの缶詰(缶ビールと同じ大きさで、1ユーロ−150円−だった。種も抜いてあり、美味しかった)
メスキータ見学
メスキータは、スペイン語でモスク(イスラム教寺院)のこと。780年に建立されその後3回の拡張を経て現在の規模になった。
グアダルキビール川越しに見るメスキータ、その内部
昼食
花の小径を通って、レストラン(EL BURLAERO)で昼食(13:00-14:15)。ここで食べたハモンセラーノとスペイン風オムレツは美味しかった(^O^)。勿論、ワインも!
花の小径(ゼラニュームの鉢がぶら下がっているだけ)、カラフルなお土産物や、美味しかったレストラン
フラメンコショー鑑賞
セビーリャのホテルへは17:00に到着。19:30から、ホテル近くのEL Patio Seviillano で1時間半ほどフラメンコ・ショーを鑑賞した。ワインを飲みながら観た、楽しい舞台だった。夕食はその後ホテルで、21:30から。
2階席前方からの舞台、次の公演を待つ人達
10月11日(水) スペイン広場、アルカサル(王城)、カテドラルそして、県立美術館でムリーリョの絵を観た
この日は、セビーリャ滞在。ここはローマ時代には既にこの地方の中心都市の一つで、西ゴート王国の首都だった時期もある。8世紀以降は進入してきたイスラム勢力の下でさらなる発展を遂げた。街のシンボル”ヒルダの塔”が建てられたのは12世紀の終わりのことだった。
カスティーリャ王フェルナンド3世がセビーリャを奪還した(イスラムから)のは1248年のこと。大航海時代には、新大陸との交易港として栄える。この繁栄は、街の中心付近を流れるグアダルキビル川Rio Guadalquivirに負うところが大きい。コロンブスの新大陸発見以後、セビーリャはアメリカ大陸への旅の拠点となった。
1519年に世界一周の旅に出たマゼランもセビーリャから出発している。更に1503年に南米植民地との取引をするインディオ通商院が設立されると、新大陸との交易を一手に独占することとなり、セビーリャの街は大いに活況を呈することとなった。−わがま歩き「スペイン」から−
9:00にホテルを出て15分でスペイン広場到着
左、朝霧にむせぶスペイン広場(建物は、1929年開催のイベロ・アメリカ万博のスペイン館)、右は各ブースにある各県の歴史的図柄のアズレホ(彩油タイル)−S添乗員旅日記から−
アルカサル(王城) Reaal Alcazar 見学 10:05〜11:10
もとは2世紀後半にイスラム教徒によって建てられた城塞であったが、当時の面影は殆ど残っておらず、現存するのは14世紀中・後期、残酷王El Cruelと呼ばれたペドロ1世が建設したペドロ残酷王の宮殿の施設が大部分だ。−わがま歩き「スペイン」から−
左から入場門、宮殿入口、パティオ、大使の間のタイル壁
カテドラルとヒルダの塔 見学 11:15〜12:25
カテドラルと中に安置されているコロンブスのお墓
1042年から1世紀余をかけて建てられたゴシック様式主体の大聖堂。幅116m、奥行き76mの規模は、ローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐヨーロッパ3番目の大きさを誇る。
ヒルダの塔はカテドラルに併設された(左写真の右側)高さ98mの鐘楼。12世紀末のイスラム建築で、もともとは現在のカテドラルの場所にあった大きなモスクのミナレット(尖塔)だった。展望台のある高さ70mまでが、ほぼオリジナルのままのイスラム様式。そこから上の鐘楼部分は、16世紀にキリスト教徒が付け加えたものだ。 −わがま歩き「スペイン」から−
この寺院には、あのコロンブスの骨が保存されている(写真右)。全部で150cの骨のうち30cを使ってDNA鑑定した結果、本物と証明されたそうだ。吃驚した。
県立美術館で絵を楽しんだ
修道院を改装した美術館、ムリーリョの絵
午後は自由行動時間だったので、Kさんと、妻の3人でムリーリョの絵画を楽しんできた。 ホテルから徒歩で10分くらいの所だった。今回の旅、自由行動時間は、5回あった。希望者には、添乗員が付近を案内という親切なメニューもある。今回は、クルーズだった。参加は自由なので、とてもいい。
10月12日(木) ローマ遺跡の街メリダ、中世の面影を残すカセレスの街を観た後、パラドール(トルヒーヨ)に泊まった
ホテルを朝早く、未だ暗い中8:00に出発。内陸部に入ってポルトガル国境沿いのエクストレマドウーラ自治州からの、綺麗な朝日が見られた。いわば、イベリア半島の夜明けともいえる。
これが、その朝日
そして、あの美味しいハモン・セラーノの原料(と、云っては可哀想だが)になる、イベリコ豚が樫の木のドングリを食しているのを見かけた。ハモン・セラーノ、これはいわゆるハムだが、こちらではスーパーでこの豚の脚を丸ごとハムに加工したものをそっくりそのままの状態でつるして売っている。客は、好みの脚(と、云うか肉?)を選んで、スライスして貰うのだ。100c200円位からだったと思う。味は、ほっぺたが落ちるほど美味しい。これをつまみにワインを飲んだが、至福の一時といっても過言ではない(~o~)。
ピンぼけで分かりにくいが、褐色のがその豚
メリダ見学
メリダはローマ時代、重要な交易路「銀の道」の交通の要衝として紀元前25年に構築された都市。今でもローマ劇場を始め、多くの遺産が残されている。−スペイン政府観光局資料から−
ローマ劇場とディアナ神殿
カセレス見学
カセレスは、カトリック両王(イサベルとフェルナンド王、 1469〜)の統治の下、大航海時代にめざましい発展を見せ、栄華を極めた都市。今でも、旧市街に多くの観光スポットが集中している。−スペイン政府観光局資料から−
ローマ橋、サンタ・マリア教会(後期ゴシック様式で、16世紀にレコンキスタ後城壁内に最初に造られた教会)
トルヒーヨのパラドール泊
この日は、トルヒーヨにあるパラドール(国営のホテル)に泊まった(17:40到着)。ここは、修道院を改装してホテルにしたということだが、至る所にその痕跡が認められた。風情もあり、落ち着いた感じがとても良かった。ここは、1泊3万円くらいだったらしい。
左が目指すパラドール、入り口(四つ星が見える)、パティオ
レストラン
廊下に展示してある、当時のものと思われる家具
10月13日(金) 征服者たちの出身地トルヒーヨ、黒いマリアのグアダルーペ修道院を観て、トレド(CARLOS X)に泊まった
トルヒーヨ散策
泊まったホテルから徒歩で、トルヒーヨの古い街並みを散策した。 ここ、イベリア半島中央高原の西側に当たるエストレマドウラ地方は、土地が痩せているため産業が発展せず、人々は豊かな生活を求めて故郷を離れる傾向が強かったという。
強い野心を胸にトルヒーヨの街を飛び出したのは、アマゾンを探検したフランシスコ・デ・オレリャナや、怪力で名を馳せたディエゴ・ガルシア・デ・パレデス。
そして最も有名なのが、ペルーを征服したフランシスコ・ピサロFrancisco Pizarro だ。また、メキシコを征服したエルナン・コルデスもエストレマドウラ地方の出身である。かくしてこの地方は「コンキスタドレス(征服者たち)の故郷」と呼ばれるようになった。トルヒーヨの中心部にあるマヨール広場Plaza Mayorには、「街の英雄となった鎧姿のピサロの騎馬像Estatua Ecuestre de pizarro 立っている(下の写真)。−わがまま歩き「スペイン」から−
マヨール広場に立つペルーの征服者ピサロの像
グアダルーペ修道院
トルヒーヨをバスで10:20出発。11:45にグアダルーペ修道院に到着。
グアダルーペ修道院は数世紀に亘り巡礼地として、多くの人を迎え入れてきました。修道院は無償で巡礼者を3日間受け入れると共に、帰路用の履き物も提供してきました。
現在この修道院はユネスコの世界遺産に指定されています。また、ここはコロンブスがカトリック両王を謁見し、カラベラ(中型帆船)船と乗組員の便宜を図る旨を約束した手紙を受け取ったイスパニア寺院としても知られています。修道院の正面にはコロンブスが2度目の航海で連れてきた二人のインディオが洗礼を受けた洗礼盤が残されています。
グアダルーペ修道院のバラ窓と大窓はゴシック様式、そしてその後の度重なる改修や増築にはルネッサンス、バロック様式と様々な建築様式が混在しています。アルフォンソ11世が14世紀サラードの戦いに勝利をもたらした聖母への感謝の意をこめてこの修道院の建設を命じました。
修道院の中で最も興味深い見所の一つに、聖具納室に収められているスルバラン(エクストレマドウラ出身の画家)の11枚の布に描かれた名画があります。
また幾つかの木製扉の奥にある聖母の玉座の次の間には、エクストレマドウラのの守護聖母「黒い聖母像」が保管されています。−スペイン政府観光局資料から−
左、修道院遠景、右、修道院(赤い丸は、洗礼盤)、
左、回廊風景、右、黒いマリア像(絵はがきから−館内は撮影禁止だった)。
幸い、この「黒い聖母像」を拝むことが出来た(大きさは60p程)が、脇に僧侶(神父?)が皿のようなものをもって立っていた。私は、お金を入れるのかと思って、コインを入れようとしたら、それはアッチと指さされた。その皿は、なんと、カトリック信者がキッスをするためのお皿だったのだ。習慣を知らないということは、情けない。
そして、もう一つ驚いたことがある。それは、聖歌隊の楽譜だ(残念ながら、写真は撮れない)。大きさは、1m*0.8m*0.15m位(記憶にあるだけで不確か)の書物で、重さは40s(これは間違いない)、牛皮製の用紙にカラーで記されていた。それが何十冊も保存されているのだ。そして、これの譜面台が凄い。頑丈な木製で直径が2mほど、ほぼ円形で中心に回転軸があり、その周りにこの譜面を何冊か置いて回転できるようになっていた。
18:40 トレドのホテル(CARLOS X)着-ここに2泊−
10月14日(土) この日は、トレド滞在で、大聖堂、サント・トメ教会、ローマ競技場、グレコの家、タベーラ病院で絵等を観た
トレド市はカスティーやーラ・マンチャ自治州の州都であり、またトレド県の県庁所在地でもあります。この街は政治、経済、文化の面で重要な位置を占めていrます。独特の工芸品でもその名を知られ、また歴史的、芸術的モニュメントの多さではスペインでも随一といえるでしょう。
トレド市は「三つの文化の街」として知られています。つまり、キリスト教徒。イスラム教徒、ユダヤ教徒が長い間共存し、それぞれが遺した文化は独自性を保ちながらも一つに溶け合って、この街に独特の雰囲気を作り上げてきたのです。−スペイン政府観光局資料から−
大聖堂見学
スペインのキリスト教首座大司教座であり、スペイン・カテドラルの中でも最も大きな規模を誇る。1227年、フェルナンド3世によって着工され、完成したのは1493年。フランス・ゴシック様式を基調にした壮大な聖堂の中には、彫刻、絵画など、宗教芸術が数多く展示されており、優れた美術館としての価値も持っている。−わがまま歩き「スペイン」から−
サント・トメ教会、ローマ競技場を見学
サント・トメ教会には、エル・グレコの「オルガス伯の埋葬」が展示されていた(残念ながら、写真は撮れない)。彼の最高傑作の一つと言われているようだ。
ローマ競技場は、その半分ほどが公開されていた(他の部分は未発掘?)。
左、サント・トメ教会(中央にある木の右) 右 エル・グレコの「オルガス伯の埋葬」−トレドで買い求めた「トレド−歴史と芸術」から転載
ローマ競技場(左から、入場口、園にある施設概要−トラックを縦に走っているのは道路で、その右側が公開されている)、その施設
エル・グレコの家見学
1541年、ギリシャのクレタ島生まれで、本名はドメニコス・テオトコプロス。エル・グレコというのは、スペイン語で「あのギリシャ人」という意味のあだ名である。彼は生涯、スペイン人がつけたこのあだ名で呼ばれていた。
グレコの作品の特徴の一つは、登場する人物が小さな顔と引き延ばされたような長い体を持っていること。そしてその作品は独創的な手法・構図を駆使しながら、幻想と写実主義を見事に調和させた宗教画が多い。現在ではベラスケス、ゴヤと並んでスペイン三大巨匠の一人に数えられているだけではなく、「最も純粋なスペインの魂」を表現しているとさえ云われている。
当時グレコが住んでいたといわれる邸宅を改装し、そのアトリエに作品を展示している。−わがまま歩き「スペイン」から−
タベーラ病院見学
1541年に枢機卿タベラによって着工され、スペイン内戦後は付属の美術館が増設されいる。エル・グレコ最後の作品と作品と言われる「洗礼を受けるキリスト」を始め貴重な絵画・彫刻が展示されている。−わがまま歩き「スペイン」から−
タベーラ病院
10月15日(日) コンスエグラで風車を見て、アランフェス王宮を見学、その後チンチョンの村を通って、宿泊地マドリッドのホテル(RAFAEL ATOCHA−ここに3泊)へ
9:00に、ホテルを出発。コンスエグラの風車には、12:50に到着。見晴らしのいい丘の上に城と風車が並ぶ風景は、これに突進するドン・キホーテの姿を思い浮かべさせる。足下には可憐なサフランの花が咲いていた。この辺はこれの産地で、料理用などに質のいいのが採れると云うことだ。
風車(広大な平野の中に、標高100mたらずの丘があってそこに、城と風車がある)、サフラン(中心にあるオレンジ色の雌蘂?雄蘂?を収穫して香料などにするのだという)
アランフェス王宮見学
昼食後、アランフェスの王宮を見学(13:40-14:45)。スペインには4つの王宮(メイン−マドリッド、夏−セビーリャ、春−エルエスコリアル)があり、ここは秋の王宮になる。建設が始まったのは、1561年、フェリペ2世の時。そして18世紀後半のカルロス3世の時代になって完成した。
外観と内部
チンチョンの村
15:20−16:30ここを見学したが、仲間はあちこち見物に出かけたようだが、私たちはマイヨール広場を望むカフェで一杯やって、ボーとしていた。
目の前で、農家のおじさんが野菜や果物を売っていたので、1ユーロ(150円)でメロンを買って帰って、ホテルで食べたが、これがとても美味しかった。大きさは、日本の児玉西瓜くらいあった。ホテル着17:25。夕食は例によって、20:00からだった。
この広場は、闘牛場を兼ねているようだ(仮設スタンドがあり、広場をこのように建物が囲んでいた。そして地面は、闘牛場との同じような土だった)。この日は、目の前を子供たちを載せたロバが、ゆっったりと歩いていて、長閑な風景だ。
10月16日(月) 城壁の街アビラ散策、セゴビアでローマ水道橋・アルカサルを観て、マドリードへ戻り、ピカソのゲルニカを鑑賞
ホテルを8:30に出発。晴天続きだったが、天気の変わり目にきたらしい。そしてスペイン中央部にあるグアダラマ山脈を越える頃には雨も降りそうだったが、下るにつれ曇り空に変わったが、冷たい風が吹き荒れ一転冬の様相になった。前日までの温かさが、嘘のような気候だ。
アビラの街散策
11世紀にイスラム教徒の反撃から街を護るため建設された城壁の中の旧市街は,まるで中世の街のよう。石畳の街を歩くだけで、落ち着いた街の雰囲気を味わうことが出来る。
またアビラは、修道院改革に尽力したサンタ・テレサ(1515-82)の生誕の地。このため、16世紀のアビラは「聖者たちの街」といわれ、修道院の改革の中心地となった。−わがまま歩き「スペイン」から−
エンカルナシオン修道院ヤサン・ホセ修道院、サンタ・テレサ修道院と聖人ファン・デ・ラ・クルスの痕跡をたどるために数百万の人が世界各国から訪れます。−スペイン政府観光局資料から−
城壁の門、サンタ・テレサ修道院
セゴビアの街
ローマ水道橋に代表されるように、セゴビアの歴史は古い。また、中世に築かれた城壁が今でも旧市街を囲むように残っている。現在はローマ水道橋をはじめ、白雪姫のお城のモデルとなったといわれるアルカサル、郊外のラ・グランハ等観光地として人気が高い。
ローマ水道橋
ヨーロッパ各地に残るローマ水道橋の中でも、最も美しい橋の一つと言われている。全長728m(高さは、高いところで30m)。セメントなどの接着剤を一切使わず、花崗岩のブロックを積み重ねただけで、2段アーチの形で構成されている。造られたのは紀元1世紀頃のトラヤヌス帝治世期とみられ、当時のローマの文明、技術の水準の高さには驚かされる。橋を流れるのは遠くフエンフリア山脈から発するアセベタ川の水をセゴビアまで引いたもので、現在でも水路として利用されている。
−わがまま歩き「スペイン」から−
2000年の風雪に耐え、今も現役!!技術の進歩とは、何なんだろうと思わせる
アルカサル
エレスマ川トクラモレス川が合流スル地点に聳える岩山の上に建つ。その優雅な外観から、ディズニーの「白雪姫」のお城のモデルになったといわれている。もともとは王家の居城であった城、イサベル女王の即位式やフェリぺ2世の結婚式もここで行われた。
ソフィア王妃芸術センターとゲルニカ
マドリードに在り、歴史的建造物として文化財に指定されている、かってのサン・カルロス病院で、1986年に芸術センターとしてオープンした。スペインの近代及び現代美術を中心に集められている。ここで、ピカソのゲルニカを観た。
左、入場口 右はゲルニカ 1937年 349.3×777.6p
−上の「ゲルニカ」と、次の解説は、美術館で買い求めた「ピカソ:ゲルニカ」から転載した−
1937年、スペイン共和党政府はパリ万博スペイン館に展示する壁画の制作をピカソに依頼する。当初この重大な任務にどう取り組むか考えあぐねていたピカソは、スペイン内戦のさなかバスク地方の都市ゲルニカが悲惨な空爆を受けたとのニュースに突き動かされ、一気に製作を開始する。
取り憑かれたように描いた習作の数は50を超え、更に巨大なキャンバスに向かい何度も変更修正が重ねられた。政治的寓意やルポルタージュ的側面、歴史との関連が盛り込まれたこの作品は完成以来多くの議論を呼び、様々な解釈を生み出してきた。
1937年以降の「ゲルニカ」
1937年パリ万博のスペイン館は予定より7週間遅れて開館した。だがピカソの名声をもってしても、万博の大衆的な風潮は無視であった。「ゲルニカ」の政治声明としての力が認められたのは、この年の末頃になってからで、〈Cahier d Art〉誌が合併号のほぼ全ページを割いてこの作品を特集している。
万博が閉幕した1937年11月には、既にバスク地方はフランコに陥落、ファシスト軍がスペイン北部全体を占領していた。イギリスはフランコをスペイン統治者として承認し、人民戦線軍へのソヴィエトの支援は次第に縮小されていく。スペイン館からスペイン本土に戻された作品は行方不明になっていた。「ゲルニカ」はパリのピカソの下に返却され、そのスペイン難民の救済資金を募る為ヨーロッパの各都市で展示される。
1939年3月7日、フランコ軍はついにマドリードを占領。その年5月、「ゲルニカ」はアメリカに渡る。数ヶ月間の展示予定だったが、結局それきり42年間、この作品がアメリカから出ることはなかった。
ニューヨーク近代美術館で開かれた大々的なピカソ回顧展でも中心作品だった「ゲルニカ」は、第二2次大戦中もこの美術館に留められ、戦後もそのまま所蔵される。ピカソは1937年、共和党政府が復活したら「ゲルニカ」はマドリードに置くべきだと明言している。
1970年には「スペインの民衆が自由を取り戻したら」と発言を変えたが、1971年には再び当初の言葉に戻った。1973年ピカソは没し、その2年後にはフランコも世を去る。ファン・カルロスが王位を継承し、新たな民主化への動きが出てきたと見られたため、1978年にアメリカは「ゲルニカ」を民主主義国スペインに返還することを認めた。
作品を何処に置くかについての激しい議論の末、プラド美術館の別館所蔵と決定する。1981年10月24日には正式な除幕式が開かれた。9年後、ファン・カルロス王とソフィア王妃により、それまでのスペイン現代美術館に代わるものとして国立ソフィア芸術センターが開設され、この真新しい場所が、とてつもなく偉大な作品の終の棲家として与えられることになった。
セゴビア名物”子豚の丸焼き”
レストラン La Cocina de Segoviaで、この料理を食べた(昼食)。
左、これが子豚の丸焼き。みんなの見ている前で、手に持った皿で、この肉を切り分けて、その皿を床に放り投げて割る(2枚目)。
つまり、それ程軟らかい肉だよ、というのを目の前で見せるという趣向のようだ。分け前(3枚目)。とても美味しかったとの、妻の言。
左、このレストランで食べた。その時飲んだRIOJAのワイン(とてもGood−日本でも輸入品が売られている、と、同行の仲間が云っていた)、”子豚の丸焼き”元祖の店のウインドー
10月17日(火) プラド美術館で名画鑑賞、小雨煙るスペイン広場と王宮を観る
プラド美術館で名画鑑賞
こちらへ来て、初めて雨の朝を迎えた。乾いて赤茶けて固く締まった大地、葉は萎れ青息吐息に見えた木々が潤い、地上に生気が満ちてきた感じだ。
ホテルからプラド美術館は、歩いても15分くらいの所だが、遅延のバスに乗って、着いたのが10:10。画集でしか観たことのない絵が、次から次へと展開。至福の一時だったが、時間が少なかったのと、撮影禁止が残念だった (これは、最近のことらしい)。
プラド美術館
スペイン広場のドン・キホーテ主従
スペイン広場にあるセルバンテス像と、ドンキ・ホーテ、サンチョ・パンサ像は、セルバンテス没後300年を記念して造られたもの。
セルバンテス像は、写真左の中央、その前に、愛馬ロシナンテに乗ったドン・キホーテ、ロバに跨ったサンチョ・パンサ像
王宮
この王宮は、1764年に完成した。建築様式は古典主義趣味の派ロック様式がメイン。現国王一家は郊外のサルスエラ宮に住んでいるので、公式行事に使用されるとき以外は、一般に公開されている。−わがまま歩き「スペイン」から−
部屋数が2700もある。ファン・カルロス王子の結婚式がここで行われ、浩宮皇太子は、お一人で参加されたという。
パエリアの昼食
レストラン RIO RIO で食べたパエリアは、とても美味、勿論ワインも(~o~)
10月18日(水) マドリードからロンドン経由で帰国
楽しかったスペインを後に、マドリードを12:30(BA457便)発、ロンドン(15:45発BA007便)を経て、成田へは翌19日11:05着で、無事帰国した。
マドリード空港(2枚)、上空から
旅を振り返って、感想 (思いつくままに)
1 普通に気をつけていれば、治安は心配ない。悪い、と、云われているようだが、注意(真夜中に出歩くとか、一人で旅行者然とか)していれば大丈夫。
2 見所がとても多く、歴史を感じさせる。歴史的な建造物も現役というのが凄い。世界遺産が結構あったようだが、現地ではこれについて聞かない。そんなものは普通のこと、なのかも知れない。日本の現状が嘆かわしい。
3 日本のように画一的でない、というのがとてもいい(地域によって、言語も風物も違う)。
4 こういう国では、いじめ問題なんて、無いのでは(聞いてみれば良かったが…)と、考えさせられる。
5 食べ物は、海産物も多く、味も日本人に合っているように感じた。美味しいものが多い。ワインが安くてとても美味い。
6 スーパーで、ハモン・セラーノを買おうとして、様子が分からなくて、まごまごしていたら、奥さんらしい人が親切に教えてくれた。嬉しかった。
7 時間にはルーズかも知れない。度々バスの遅延があったし、例外だとは思うが、運転手の機嫌が悪くて、不愉快というか、大丈夫かなと心配したこともあった。
8 添乗員(E 旅行社)が、毎日の旅日記(何時に何処、何を観たか、何を食べたか等)を記して、配布してくれたのは、とても参考になって有り難かった。そして、社の方針で、お土産店への案内をしないというのも、とてもいい。