勝手にパリ百景  その3 セーヌは流れる

セーヌ川は、パリにとっては母なる川だ。以下宝木範義著「パリ物語」新潮選書、からの引用による。

パリの発端は、前3世紀まで遡る。ケルト系のパリジ族が、船を操ってセーヌを上り下りするうち、格好の中州を見つけて住みついた。これがシテ島である(上の図右側)。初めこの町はルテチアと呼ばれたが、ルテチアの意味は水に囲まれた住まい、を意味した。

紀元前52年には、ローマ軍が進出して、ガリア総督の地位にあったシーザー(カサエル)が、「ガリア戦記」に初めてこの町について書いた。土木工事が得意なローマ人は、シテ島に宮殿(現在のコンシェルジュリー)を造り、対岸の一帯つまりカルチェ・ラタンのあたりに、ローマ風呂・フォーラムなどを設けた。ローマ人はルテチアに水道を引き、舗装道路を作った。このローマ時代に、パリの土台が築かれたと言えるだろう。その後ユリアヌス帝のころに、ルテチアはパジリ族に因むパリを、この町の呼び名とするようになったと伝えられる。(以上、ほぼ引用)

この川は、パリの東にあるラングル高地に端を発し、ドーバー海峡(対岸はイギリス)を望むセーヌ湾に注ぐ776Kmの川である。日本で一番長い信濃川(367Km)の約2倍ある。パリの街をほぼ東から西に流れている。

パリにいる間、一回この川をクルーズしただけだが、帰国してから撮った写真を見たら、セーヌにかかる橋の写真が多いのに驚いた次第だ。ことほど左様に、パリとセーヌは切っても切れない関係かも、と、思ったりした。その写真のうち数枚を載せてみた。

 

ポン・ヌフ橋

パリで一番古い橋(右のプレートにあるように、1578-1607年に造られた)シテ島の西端にあり、右・左岸を結んでいる(上の図右側)。写真左は、サマリティーヌ・デパート、その右はルイ・ヴィトン本社。このデパートも経営はルイ・ヴィトンに移ったという。

 

アレクサンドル3世橋

セーヌに架かる橋で一番美しいといわれる橋。写真左は、コンコルド橋からのこの橋の眺め。橋の四隅には、ギリシャ神話の女神。見えるのは、グラン・パレ。クルーズで見えた、紋章。

 

シャンジュ橋(左、二枚目)、写真三枚目は、サン・ルイ島に架かる、トウネル橋(手前)とシュリー橋(同奥)

ノートルダム寺院から撮ったもので、左は西方向、右は東を見たもの。サンジュ橋には、ナポレオンのNが見える。

 

Pont d'Arcole

 

建物は、市庁舎−シテ島の対岸にある。この市庁舎の広場は、中世から革命前まで、市民が集まるお祭り広場だった。(中略)当時死刑の宣告を受けた罪人は、この広場で公開処刑されたが、それを見物するのが、パリ市民の一番の娯楽にもなっていた。

13世紀以来の歴史を持つ市庁舎の建物は、フランス革命後、ダントン、ロベスピエールらに率いられた革命自治体の本拠となる。その後2月革命(1848年)の臨時政府、パリ・コミューン(1871年)の本部が置かれるなど、数々の歴史の舞台になってきた。現在のネオ・ルネッサンス様式の建物は、1874年から1882年にかけて、再建されたものである。−JTB 街物語 パリ−から

 

コンコルド橋

建物はブルボン宮(今は、国会議事堂)、この橋をわたると、直ぐコンコルド広場だ。

芸術橋とロワイヤル橋

左の建物は、フランス学士院、右の写真は左にルーブル右にオルセー美術館

気分はパリジャントップ     オペラ座