勝手にパリ百景  その4 矢っパリ建物でしょ

 

3 凱旋門   説明は−JTB 街物語 パリ−に拠った

シャンゼリゼ大通りと凱旋門

この巨大な門のある広場には、12本もの大通りが流れ込んでいる。

オストリッツの戦いの勝利の後、ナポレオンは巨大な古代ローマ風凱旋門の建築を思い立つ。建築家シャルグランが設計を担当し、1806年からエトワール広場で工事が始まったが、ナポレオンの没落によって一時中断。王政復古時代には、凱旋門に変わる建築も検討された。

1832年から工事は再開され、36年には高さ49.54m、幅44.82mおくゆき22.21mの巨大建築がほぼ完成を見た。完成後は軍のパレードや国家的行事が行われる場所として親しまれ、ナポレオンの遺骸の帰還、ヴィクトル・ユゴーらの国葬、ドゴールの凱旋パレードなど、数々の歴史的事件を見守ってきた。

 

上の凱旋門はシャンゼリゼ通りから見た凱旋門。

向かって左に(上の写真左)、1810年の勝利(コクトー作)で、勝利の女神から桂冠を授かるナポレオンが刻まれている。

右は、1792年の義勇兵の出陣(リュードの傑作)で、通称「ラ・マルセイエーズ」。1792ねん、おーすとりあ、プロシャ連合軍が国境を越える勢いを示す。祖国の危機を救うため、義勇兵の募集に応じてマルセイユからやってきた兵士達は、士官ルジェ・ド・リール作曲の愛国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌った。これが現在のフランス国家の由来だ。

 

 

左上部にある「アブキールの戦い」(スーレ作)。馬上のナポレオンがトルコ兵を睥睨している(1899年7月24日にアブキールでトルコ軍を破った)。

右上部には、「マスソー将軍の葬儀」の模様。この将軍はナポレオンのイタリア遠征時の将軍の一人。1896年、ドイツ西部のアルテンキルヘンで戦死した。

なお、ナポレオンが凱旋門を造る契機となった「オステルリッツの戦い」の彫刻は右側面にあるが、残念ながら工事中だった。この戦いは、1805年12月2日、当時オーストリア領内にあった村、オステルリッツで、3人の皇帝(ナポレオンとロシア・オーストリアの皇帝)が一戦を交えた。ナポレオンは7万の兵で9万のロシア・オーストリア連合軍に完勝。この勝利は彼の華やかな軍歴チュウドも最も輝かしいものとなった。

 

気分はパリジャントップ    エッフェル塔