4 私のルーヴル  6 メデューズ号の筏

「メデューズ号の筏」 

テオドール・ジェリコー  1819年 油彩・画布 491×716cm

この作品でジェリコーは、当時実際に起こった社会的事件を主題に取り上げた。(中略)事件の発端は、1816年、王政復古が成立してまだ間もない頃、政府がイギリスから返還されたセネガルを植民地として統治するために総督、軍隊、植民者を海軍の船に乗せて送り込むことにしたところに始まる。

指揮官には元亡命貴族のショマレーが任命され、フリゲート鑑メデューズ号を旗艦に1816年6月、艦隊はフランスを出発した。だが、ショマレーの無能力は海に出ると間もなく明らかになっていった。アフリカ西海岸沖で事件は起こる。メデューズ号が、難所として有名な浅瀬の海域に入り込んで座礁したのである。

 

 

救命ボートが不足していたので、急ごしらえで筏が準備され、そこに150人余りが下ろされて、これを総督やショマレーらを載せたボートが引くことになった。ところが筏が重くなかなか進まないことが分かるとボートの側は繋いでいた綱を切り、筏は波に漂うに任される。海も荒れだして多くの者が波にさらわれ最初の夜が明けると筏の上の人数は半分に減っていた。

恐怖が人々を捕らえた。反目が生まれ、殺し合いが起こった。数日目には、死体の肉を食べることも始まった。こうして12日目、僚艦アルギュス号が筏を発見したときには、生存者は15人を数えるのみであった。−朝日美術鑑賞講座6 19世紀近代絵画@−から

海軍博物館長のベレク大佐(海軍軍人で海軍公式画家)は、高木八太郎氏の「現代のフランス海軍の軍人として、あの事件をどう思いますか」という問いに対して次のように答えている。

「船を指揮した私の経験からいうと、大事故はいくつもの過失が重なって起きます。メデューズ号の場合、15の誤りが指摘できます。まず第一に、ショマレーを司令官に任命すべきではなかった…」(中略)

また、「画家としては、あの絵はどう見ますか」に対して、「好きです。構図が素晴らしい。しかし、現実に即していないことは、明らかですね。干してあった筈の人肉が描いてない」と答えている。

当時、あの事件を絵にすること自体が、王室に対する挑戦ととられた。そこまでは、描けなかったのだろう、と大佐は話を続けた。(中略)

ジェリコーは、頭を剃ってアトリエに閉じこもった。ほぼ8ヶ月が経った。この間、会ったのは、事件の生き残りで筏の上で権力を振るった船医サビニーは地理技師コレアール、それにドラクロア親しい友人達だけであった。凄まじい集中振りだったという。ジェリコーは、この絵の制作に精根尽き果てたのか心身共に弱り、完成の5年後32歳で死ぬ。(後略)−世界名画の旅1フランス編1 朝日文庫−から

 

競馬 通称「エプソン1821年のテルビー」(上)

テオドール・ジェリコー 1821年 油彩・画布 92×123cm

当時の人気イギリス絵画の影響を受け、鮮やかで光沢のある色調が、空気の湿り気を感じさせる。非現実的な馬脚の動きがしばしば批判されたが、残された下書きによれば、観察力の不足というより、作者の自由意志によることが分かる。−別冊太陽 ルーヴル美術館−から

 

気分はパリジャントップ     美しき女庭師