4 私のルーヴル  8 アルジェの女達

 

「アルジェの女達」

ウジェーヌ・ドラクロワ 1834年 画布・油彩 180×229cm

モーツアルトのオペラ「後宮よりの誘惑」にも見られるように、東方世界に対する西欧の人々の関心は、既に18世紀には広まっていた。(中略)1830年アルジェリアを占領したフランスは、その植民地支配を安定させるため隣国モロッコとの友好関係を求めた。

このためモルネー伯爵を団長とする特別外交使節が派遣されることになったのであるが、ドラクロワはこの一行に記録係として随伴する機会を得て、北アフリカ旅行に出ることとなったのである。1832年1月、トウーロンの軍港を出発した一行は、スペイン南部アンダルシアの海岸に寄港しながら南下してタンジールに到着、6月末までモロッコに滞在した。

長年の夢を実現させたドラクロワの見たものは、その予想をはるかに超えた光と色彩の饗宴であり、また近代の西欧人の失った(と彼が信じる)尊厳と気品を保つ人々の姿であった。戦慄、魅惑、そして啓示−その旅行によってドラクロワのヴィジョンも技法も美学も大きく変化した。

彼は至る所で、昼間はスケッチをとり、夜に色を付けるという具合に、熱狂的な興奮のうちに、デッサンや水彩を描いて、7冊のスケッチブックに500点を超すスケッチを残した。その後のドラクロワの芸術の汲めども尽くせぬ源泉として終生、利用されることになる。

1834年サロンに出品された「アルジェの女達」は、ドラクロワがこの北アフリカ旅行から引き出した最初の成果である。それは、ドラクロワの代表作として、また西欧の近代人の欲望が作りだした東方世界のの忘れがたいイメージとして、その後のヨーロッパ美術に大きな影響を及ぼすこととなった。(中略)

豪奢な品々に囲まれながら、クッションにもたれかかったり、或いは片膝をたてて、無為の時間を過ごす女達の相貌には、匂い立つような官能的な詩情が感じられる。女達の方を振り返りながら足早に立ち去る黒人の小間使いの姿も、場面の無限の雰囲気を高めており、ただ愛と逸楽の為にのみ存在する女達の美しさを引き立てている。ちょうど古典派が、水から上がるヴィーナスや眠る神話の女神たちの中に理想的な女性美を作り上げたように、ドラクロワは、男達の欲望の園でいっそう華麗な花を咲かせるこれらのハーレムの女達に、理想的な女性像を見いだしていたといえよう。

この作品の持つそうした濃密な官能的イメージは、印象派のルノワールやその後のマティスなどの多くの画家に大きな影響を与えることとなった。−朝日美術鑑賞講座6 19世紀近代絵画@ 太田泰人−から

 

「ショパンの肖像」

ウジェーヌ・ドラクロワ 1838年 油彩 45×38cm

以下−世界名画の旅 1 フランス編1 朝日文庫 高木敏行−から

ドラクロワが残した数少ない肖像画の中に「ショパンの肖像」と「ジョルジュ・サンドの肖像」がある。現在「ショパン」の方はパリで、「サンド」はコペンハーゲンで、それぞれ独立した肖像画として公開されている。ところが、この2枚の肖像画は、もともと同じ一枚の画布に描かれたのだ、といわれている。

制作は、1838年、ショパンがサンドから「あなたを熱愛する人がおります。ジョルジュ」という短い恋文を受け取った頃だ。ポーランド生まれの音楽家フレデリック・ショパンは28歳。ピアニストとしても作曲家としても既に 名声高く、パリ社交界の寵児となっていた。「愛の妖精」の作者ジョルジュ・サンドは34歳。女権拡張を唱えて男性遍歴を重ねたり、男装をして葉巻を吹かしたり、当時としては型破りの女性だった。

二人はこの年の冬、サンドの息子、娘と共に、地中海のマヨルカ島(スペイン)に旅をする。「雨だれ」を含む24の前奏曲が、そこで完成する。そして次の年からは毎夏のようにパリを離れ、中仏ノアンにあるサンドの館で生活を共にするようになった。有名な恋の物語である。ドラクロワは、恋人達の共通の友人であった。「彼はまれにみる高貴な人間だ。私が会った最も純粋な芸術家だ」。そう記したほどショパンの人格を愛したドラクロワは、おそらく創作意欲の赴くままに肖像画の絵筆をとったに違いない。ピアノを弾くショパンと、その背後で演奏に聴き入るサンドとを、ひとつの構図の中に描いた、とされている。

 

 

今日、とりわけ「ショパンの肖像」は、モデルの内面の個性をとらえた肖像画として、傑作のひとつに数えられる。楽想を追っているのか、憑かれてように宙を見つめる目、引き締まった口元、深々とした苦悩を漂わせる眉間のあたり…。ドラクロワは、病弱で孤独でもあった音楽家の、鋭い感性とほの暗い情念を浮かび上がらせた。ではその後、何時、誰が、何故に、一枚の絵を二つに切り裂いたのであろうか。

遺産分割説−ドラクロワの死後、この絵を手に入れたある収集家の相続人達の間で、経済的理由から2枚に分けられた。(中略)A・モローによると、元の絵はたて100p、横150pであったという(同書から。上図右下の図が、ドラクロワのスケッチ、上は、サンドの絵、−ルーヴル美術館所蔵−)。このデッサンに従って元の油彩画が描かれたとすると、切断者が実に巧妙に、一枚の絵から2枚の肖像画を取り出したことに気づく。

サンドの息子説−ショパンを嫌っていたサンドの息子モーリスが、母親に迫って、デユティーユ家(ショパンの死後友人でもあったこの人物に、この絵が渡った)に絵を切断させるようにし向けたのではないか、というものである。(中略)

パリでは、ドラクロワ研究の第一人者であるモーリス・セリュラス氏を訪ねた。氏は、ドラクロワの肖像画の価値について多くの示唆に富む話をしてくれたが、絵の切断の謎については、専門家らしい用心深さで、一切の推測を避けた。「確かな理由は何も見つかっていません。何れも仮説です。どちらが真相に近いか、今となっては何ともいえないのです」

 

注:手ぶれで補正したため、画像が悪いです−題名は「墓場の孤児」だったような気が…

 

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